密室アクアリウム

(1)

 酷く幸せな夢だったと思う。内容や色は一切覚えていないが、目覚めた時に、今までに感じたことのない安堵が、布団と共に身を包んでいた。
 最近の夢は悪夢ばかりだったためか、今日はやたらと印象が強い。漠然とした幸福感が心に残っていつまでも立ち去らないので、身体を起こすのがとんでもない重労働に感じられる。
 丸も四角も棘も、何でも無差別に抱擁する、安心感のある温度。その温度にいつまでも浸かって微睡んでいたいが、大河の意識は寒さと光のせいで強引に引っ張られる。

「…、……」

 瞼越しの眩しい陽光に、眉間に皺が寄る。朝はとうに来ていた。薄い膜を越えて強引に意識を覚醒させようとする光に、少し悪態を吐いてやりたくなった。

「……あ」

 思い出して、不意に腕を伸ばす。夜間の寒さに晒されて冷たくなったシーツの無慈悲な温度が手の平に伝わるだけで、大河は訝しんだ。首を巡らせて後を見るが、誰もいなかった。

「……犬飼」

 当然のように、存在していたような痕跡はない。最初から何もいなかったように、シーツに皺も寄っていない。凹んだ形もなかった。
 倦怠感の色濃く残る身体を叱咤して起き上がり、部屋を見回した。ドアの傍らにも、テーブルの脇にも、ベッドの端にも、その男はいなかった。音もなかった。
 何処へ行ったのだろう。消えたのか。
 理由のない焦燥感が湧き上がって、全身の関節が軋むのも無視して床に足をついた。ありえない箇所にやはり焼け付く痛みが走ったが、衣服を整えて寝室を出た。

 同じように、ひっそりとしていた。外で降り積もっているだろう雪がすべてを吸収しているせいか、外のさざめきは聞こえない。暖房の効いていないリビングで一人立ち竦み、大河は形容しがたい不安を抱いた。自分以外、いない。見えない。
 窓際に立って外を見た。地面は白一色で覆われており、車のタイヤの跡が幾重にもなって残されている。近所の主婦が、アパートの向かいで雪かきをしていた。
 外はこんなにも日常的なのに、大河の部屋だけ何故か非日常で、ある筈のものがないという――取り残された感覚で。
 
 本当は逆なのに、と思う。
 本来ならば、彼はいる筈のない存在で。見える筈のない、幽霊という存在で。いる方がおかしいというのに、見えないとこんなにも違和感を感じる。昨日まではいた、一緒のベッドに入って背後から抱き締められて眠った、のに。今は、いない。
 ずずず、と車が雪を轢く音がした。

(……何だよ、これ)

 気分がやけに落ち着かない。犬飼の姿が見えないというだけで。心が慌ただしい。前だったら、こんなことなかった。やっぱり自分は犬飼を必要としているのだと自覚すると、何か知ってはいけないことを知ってしまったような、気まずいような、居たたまれない気持ちになる。そんな自分を認めざるを得ないことは、そろそろ分かっていたが。

「くそ……」

 舌打ちを一つ、それから大河は時計を一瞥した。午後一時二十分。朝ではなくて昼過ぎだった。
 これから支度をして学校に行っても、授業は一時間しか受けられない。今日は欠席することにして、窓の外を見るのを止めた。

 蛇口を捻って冷水を出す。この真冬に水で顔を洗うのは辛いしお湯も出るのだが、今はそんな気分じゃない。時折、こうしてわざと無理を強いたくなる時がある。気を紛らわせるために。
 手が痺れるほど冷たい水を掬って、顔に叩き付ける。痛くて、顔を顰める。洗顔をして顔を上げ鏡を見ると、ふっと何かが映り込んだ。

「っ!」

 自分に危害を加えるものだと思って一瞬身構えるが、よく見るとそれは見慣れた姿だった。

「おはよう」

 鏡の中の男がおもむろに口を開けば、出て来たのは変哲のないただの挨拶だった。拍子抜けして、思わず脱力してしまう。すとん、と心に何かが落ちてきた。
 何だ、いたのか、と。
 この感情は、安堵というものに違いなかった。

「…はよ」

 振り返って、言葉を返した。

64/96 融解

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