密室アクアリウム
(20)
霞が掛かっていて不明瞭ではあったが、それは見たことのある光景だった。ぼんやりと大体のシルエットが認識できる。空は灰色で、多分、雨が降っていた。
すぐに夢だと分かった。夢の中で、自分の身体は小さかった。周囲には数人の子供がいて、彼らについて行く。既に目的地に着いていた。緑色のフェンスがあった。
そこで画面が四隅からぐにゃりと曲がり、一度混ぜ合わせられる。マーブルになった画面がクリアになる頃、目の前の少年が魚のようにパクパクと口を動かした。
彼が口にした短い言葉を、今でもはっきりと思い出せる。記憶の奥底で埃だらけになって眠っていたものだが、掘り起こしてみれば鮮明だった。
そこで納得した。そうか。
(だから、俺は、今――)
突然、映像が切り替わり、視界が薄汚れた白になった。辺りには赤も飛び散っている。意思はあったが、茫然としていた。
誰かの足が見えた。見慣れた感じのスニーカーが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。一歩踏み出される度に、散らばる赤が減ってゆく。相手が、大河の頭上で何かを喋った。
酷い汗を掻いていることを、目覚めの不快感は教えてくれた。目を大きく見開き、荒い呼吸を繰り返す。真っ先に見えたものは曇天でも雪でもなく、見慣れた天井だ。
生きている。
「は、ッ……ってぇ…!」
喧嘩でも体感したことのない激痛が全身を苛む。ズキズキとした異様な圧迫感というか、身体を外側から鉄板で圧縮されているような感覚だった。
右手は特に駄目だった。もはや痛いのか、熱いのか、分からない。酷く腫れて、甲の骨の出っ張りは完全に埋もれてしまっている。
「んだよ、これ……」
声が震えてしまうのは当然のことだった。腹部から大量の血が溢れ出し、ベッドのシーツを台無しにしている。何とか首を動かして、大河は自分の肉を初めて見た。気を失いたい程の痛みなのに意識は至って明晰であり、これだけ出血しているのに死んでいないことが不思議で、気味が悪い。そして、寒い。
「っ…」
「……大丈夫か」
低い問いが耳に届いて、大河の目は声のする方向を探った。閉ざされたカーテンの前に立っている人物を認めた瞬間、我が目を疑った。強く瞬きをして再度見遣るが、彼が立っているのは変わらなかった。
大丈夫かどうかなど、今の大河の状態を一目見れば問うようなことではないのに――彼は次いで「酷い怪我だ」と当然のことを口にしながら、ゆっくりと近づいてくる。
犬飼はベッドの脇に腰掛けると、大河の赤く腫れた右手に自分のそれを重ね合わせた。
「っつ!」
「……ぼろぼろだな」
今、触れている生白い温度が、犬飼の手であると容易には信じられないでいた。感触も受け取ることが出来ない程に負傷した拳さえも驚いてしまうくらいの存在感で包み込む手。じわじわと形容しがたい力の流れを感じる。
どうして。
もう、いなくなったとばかり思っていたのに。大河の前に二度と姿を現さないと、決めつけていたのに。
大河は公園で気を失った。……彼が、自宅まで連れて来てくれたのだろうか。
「来んな……いらねえよ」
心にもないことを口にした。そうしなければならないと思った。今更、認めるなんて出来ない。
「俺に構うなよ……! お前、マジで意味分かんねえ、捨てとけよ俺のことなんか」
「全部、俺が好きでやってるんだ」
手の痛みが徐々に和らいでゆく。不思議な感覚だった。自分の手が氷になってそれが融解していくかのようだった。手は相変わらず熱を放ったままで、痛みだけが溶けて消える。
犬飼が囁いた。
「助けたいから、助けた」
やっぱり俺が必要だったろう、とは犬飼は言わなかった。飽くまで自分の意思だと断言した。大河にとって救済のようなものだったと同時に、理解しがたい言葉だった。
「仲宗根が好きだから」
呼吸の仕方を忘れる。
「……、ぁ?」
またしても理解不能な言葉を喋る犬飼に、今度は眉を顰めた。そのまま、次に発すべき言葉を見失ってしまう。包み込まれた手を振り払うことすら忘れて、大河は正面からぶつかる視線の意図を探ろうとした。
もとより犬飼は大河の反応など期待していなかったのか、口を閉ざして傷口に触れてくる。どうやって負ったのか分からない、血濡れの肉が顔を覗かせる下腹部。犬飼は躊躇なくその上に手を被せた。もんどりうつ程の激痛、の筈が、不思議と犬飼の手の温度しか感じられない。
「構うなっつってんだろうが……」
「無理だ」
「ここのところいなかったのは、俺が拒否ったからだろうが。ならずっと、出て来なくても良かったんだよ! 助けになんか来んなよ……! いっそ俺は死んでもよかった――」
不意に腹部へ訪れた強烈な痛みに、大河はやっとのところで声を飲み込んだ。一瞬で脂汗が滲み出る。身を捩るがそうすれば身体の節々が軋んで痛い。目を細めて見ると、犬飼の指が傷口に入り込んでいた。
「っが……! ひっ…て、めえ……何を…っ」
「無理に喋らない方がいい」
ぱっくりと開いて鮮血が溢れ出る傷口を、骨ばった指が抉るように掻き回す。目尻に涙が溜まるのを意識しながら喘いでいると、犬飼が傷口に顔を近づけ、舌を差し込んだ。
「ざけんじゃねえ……! う、あ……っ」
犬飼の生温かい舌が、それよりも熱い剥き出しの肉の上を滑る。中を探る。大河はぎゅっと瞼を固く閉じた。手は耐えるようにシーツを握り締めても痛みを忘れられる訳ではない。
何だこれは。こいつは何をしているんだ。何でこんなことが出来るんだ。
犬飼にどんな力があるかなど知ったことではない。余計なことをするなと叫びたいのに口から洩れるのは喘鳴のみで、ただもどかしい。
「く、っ……」
(まただ……!)
音楽室で傷口を舐められた時のように、異様な熱が身体を支配するようになった。それは犬飼の舌が蹂躙する患部から、徐々に全身へと広まってゆく。ずず、と血を啜られれば感覚に訴えるのは痛みではなく、別のもので、大河は焦った。
58/96 過程