密室アクアリウム

(19)

 雨は既に止んでいた。しかしそれは一時的なもののようで、山の向こうではより濃い灰色の雲が空に蔓延している。今、大河の頭上にも雨雲が停滞したままで、すぐにでも再び降り出しそうな気配があった。
 とにかく急いでいた。普段はだらだらと怠惰そうに歩く道も、今日は速足気味だ。
 角を曲がれば、事故防止のミラーを見れば、疎らに立ち並ぶ家々の庭を覗けば、あのウサギがいるのではないか。そう考えると正面もまともに見れなくなる。俯きがちに帰途を急ぐが、足元を照らす色が徐々に暗く染まってゆく。

 どうして、今、出て来るのか。
 すっかり忘れていたと言えば、忘れていたかもしれない。他のことで頭がいっぱいで、考える余裕がなかった。完全に油断していた――油断していなくても、あいつはいつでも何処でも、関係なく大河の前に現れるのだが。警戒していたからと言って現れない訳じゃないのだ。

 前回はいつだったか。思い巡らせば湿気が籠った風呂場での一光景が浮かぶ。不明瞭な視界に蠢く数多の気泡、揺れる影、白い毛、水音。
 出しっ放しのシャワーと、犬飼。

「……」

 都合良く現れて助けてくれる、というのは出来過ぎた話だ。もう犬飼が大河の前に現れることは二度とないということは、確信している。突き放したことをいくら後悔しようが無駄だということも分かりきっている。
 自分の身は自分で守らなければならないのだ。自己防衛は昔から大河が得意としてきたことで、相手が人間でなくても同じだ。そう思いたい。

 雨雲によってもとより太陽は姿を隠していたが、ますます辺りが翳りを帯びてくる。自分自身さえ薄暗闇の中に取り込まれ雁字搦めにされているような錯覚を覚える。
 周りは静寂だった。夕方だというのに家々からは夕飯の支度の音も、子供の声もしない。匂いさえ漂ってこなかった。
 その不気味な空間の中で、大河の耳に一つだけ届いたものがあった。

 ひたり、ひたり、と。
 微かに聞こえる湿っぽい音は、背後からだろうか。それを聞いた瞬間、心臓を鷲掴みされたような衝撃が走った。ついに立ち止まってしまった。不思議な足音も止む。息を吐き出す。
 大河は、泥色をしたシャーベットのような雪の上を疾走し始めた。
 家までは近いが、最後まで逃げ切れるかは分からない。必死で脚を動かすが、いつもより重い。何か不可視の力に引っ張られている気がする。一歩一歩が辛く、踏み出す度にぬかるみに嵌ってゆく。
 けれど追いつかれたら死ぬのだいうと漠然的な恐怖が支配している限り、逃げるのを放棄する訳にはいかなかった。縺れそうになる脚を強引に前に進ませる。
 背後の足音は迫っていた。迫る上に、複数に増えていた。一人のものでなく、多数の足が不安定な雪の上を走る、耳障りな音。

 家までの近道に公園を横切ろうとした時、踏み出した足が地面を滑って身体が前に傾いた。雪の白が眼前に迫る。

「っ……!」

 肘から転倒し、衣服でガードされているものの擦り剥けたのが分かった。雪は案外に凶暴だ。顎に違和感を覚え手で触れると、血が指先についていた。

「っそ……、!!」

 白い雪の上に、灰色の影が出現した。はっと顔を上げると、ウサギが大河を見下ろしていた。手には斧が握られており、鉛色の刃の上に、小さな水滴がポツリポツリと落ちてきた。雨が降り出した。大河の周りと大量のウサギが囲んでいた。
 雨で濡れそぼった斧を、目の前のウサギが振り上げた。
 寸でのところでサイドに転がって避けた。間髪なく脇腹に重みを受ける。咳き込むと同時に曇天が視界いっぱいに広がった。仰向けになったと思ったら、相手が馬乗りになってきた。 

 向かってきた白い拳を受け止めた。それは一瞬の間だけで、逆に手を掴まれる。徐々に外部から加わる力が強くなり、信じがたい剛力の中で大河の拳が嫌な音を立てた。口の中で軟骨を砕いた時の音だった。引き攣った悲鳴が堪え切れず漏れた。ウサギが手を離すと、大河の手は力なく地面に落ちる。触れた雪が解けてしまうのではないかというほど、拳が異様な熱を放っているのが分かった。

 猛攻だった。壊れた機械のように、ウサギは何度も大河を殴り、痛めつけた。図体の割に機敏な動作で、大きな拳をぶつけられる。唇の端が裂け、口の中が切れた。どこから出血したのか知らないが、目に血が入った。腹部が苦しい。呼吸をするとズキリと痛む。

 次第に視界が狭まる。朦朧とする意識の中で、仕方のないことを考える。助けてくれ、もう嫌だ、と。一体誰に求めているのだろう。その中には、あの亡霊の姿もあっただろうか。
 ブラックアウトする前に、一切の抑揚がない声音が確かにこう聴こえた。
「私の玉の緒、断ち切ったのは」

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