密室アクアリウム

(18)

 電車の座席から不愉快な振動が腿に伝わってくる。ガタン、ガタン、と路線を走る音は騒音でしかないが、今は乗客が大河の他に数人と、思考の妨げをするものは少ない。

 伊織に、色々と問い質したいことが沢山あった。けれど何から訊けばいいのか分からない。頭の中が少しも整理できていなかった。

(路人……宇佐美)

 伊織が手紙を渡したい相手とは、好きだった彼とは、あの宇佐美のことだったのか。大河を脅迫して利用し、追試中に襲ってきて、一緒に揃って停学処分になった、あいつか。
 信じられなかった。宇佐美は最低な男だと、大河は思う。その宇佐美が伊織の幼馴染だった、更に片思いの相手だった、という事柄には何か歪曲が入り込んでいるのではないかと疑ってしまうのは栓のないことだ。
 伊織の言うことが正しければ、宇佐美が手紙を持っている筈だ。実際、近辺を探しても大河は自分が所持していた筈の手紙を見つけられなかった。しかし音楽室に置いてくることも、ましてや本人に直接渡すこともしていない。ならば追試験中に彼が取ったとしか考えられなかった。使えそうなものだと勘違いして持って行ったのだろうか。どさくさに紛れて。
 どのみち、伊織か宇佐美に訊かなければ真実は分からない。

「……」

 背凭れに体重を深く預け、目を瞑る。考えるのは疲れた。何にも悩まされず、惑わされず、頭を空っぽにして生きていけたらどんなに楽だろうか。どうしてこんなに、自分とは関係ない他人のことまで考えなければならないのだろう。
 意識が複雑に絡みながら闇に沈んでいくのに逆らわずにいると、不快な感じの睡魔が訪れた。抵抗する気力が起こらず、振動に揺られながら意識が落ちる。



 皮膚表面に触れる空気が不愉快で目が覚めた。何処となく重く曇っているようで、息苦しい。眠っていたのはほんの数分だと自分では分かっていたが、頭に靄がかかったように判然としない。目が覚めても不快感は拭えない。
 薄く目を開けると、大河は気付いた。
 さっきまでは誰も座っていなかった正面の座席に、何かが見えた。
 白いものだった。

「っ……!」

 思わず目を見開き、その白いものから目が離せなくなった。
 “奴”は最後に見た時よりも汚れていた。腹部の血に加え、頭から水を被ったようにずぶ濡れになって、白い毛の所々は泥で茶色くなっている。床には濁った水溜りが出来ていた。
 
 ウサギの着ぐるみだ。
 まともに呼吸が出来なった。耳の裏がかっと熱くなって、鼓動が早まる。手に掻いた汗を腿に擦りつける。逃げよう、立とうと思っても接着剤で固められたように脚が動かない。呼吸の感覚が短くなってゆく。

 “奴”は一人ではなかった。一度目を固く瞑ってもう一度開けば、増えていた。それは正面の座席を窮屈そうに全て埋め、それ以外の座席も同様に、汚れた白い着ぐるみで占められている。
 大河の両隣にも当然のように座っていた。

 自身を叱咤するが、身体は金縛りに遭ったように硬直している。圧倒的な何かが大河を支配していた。
 ウサギ全員が大河を見た。見て、口を大きく開けて、尖った前歯を見せて、にやりと笑う。黒く大きな目玉が歪む。あまりの不気味さに、背中に悪寒が走る。少しでも気を抜けば口から悲鳴が漏れ出てしまいそうだった。

 大河の緊張に反して、ウサギたちは何の行動も起こさない。大河を見てニヤニヤと嫌な笑みを浮かべているだけだ。そうして、新聞が擦れるようなカサカサという音を立てて哄笑した。窓から見える景色は、真っ黒だ。

「――っ」

 気が遠のきそうになり、瞼を下ろす。短く息を吐く。急に圧し掛かる重圧が消え去り、身体が軽くなった。
 目を開けると、正面は空席になっていた。

「は……」

 隣にもいない。他の座席も、中年男性が一人だけだ。
 つい数秒前までウサギがいたような痕跡は……雨なのか、ただの水なのか、濡れた床を除いて、ない。
 緊張で悲鳴を上げていた心臓を服の上から押さえてみるが、激しく脈打っている。静かに呼吸を繰り返していると徐々に収まってくる。身体から力を抜いて、座席に体重を預けた。
 目を瞑ると、一瞬で時が過ぎた。大河が降車する駅名がアナウンスされたのは間もなくだった。
 下車する時に、視界の端にチラチラと白っぽいものが映り込んだように見えたのは、気のせいなのかどうなのかは、分からない。

56/96 過程

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