密室アクアリウム

(17)

 その日教室に入ると、まさしく四方八方から視線が送られているような気がした。

(……露骨すぎんだろ)

 心中で文句を垂れながら、大河は視線を真っ向から無視して自分の席に着いた。細波が押し引きするようにじれったいほど緩慢な間隔で上がったり下がったりする教室のボリュームが、とても煩わしい。
 仲宗根大河と宇佐美路人が、追試験中に喧嘩をして、停学処分になった。という噂は、もう殆ど学年中に広まっているようだ。二人を知らない他学年も、そういう輩が出たという話は既に知っているだろう。

 周囲から見れば、悪者なのは明らかに大河の方だった。喧嘩の詳細を知らなくても、明るく社交的なクラスの人気者と、生活態度が悪く孤立した不良。大体の想像はつく。先入観が絡むと大抵の場合、マイナスの方向に展開するのだ。

 宇佐美を巻き込みやがって。大河に敵意を抱く者はきっとこう思っている。
 誤解もいいところだった。宇佐美は脅迫者で、大河は被脅迫者だ。それを伝えようにも、出来る訳がない。別に、したいとも思わない。

(……まだ来てねえのか)

 あと五分もすればSHRが始まる時刻になる。それなのに、宇佐美の机にその姿はなかった。
 結局その日、宇佐美は学校に来なかった。



 朝から雨が降っていた。暫く雪が続いていたが、少し気温が上がったためか空から降りてくる物は固体から液体に変わった。グランドに積もっている雪と久しぶりの雨が混ざり合い、ぐちゃぐちゃになって溶けている様が、雨粒を纏った窓から見えた。
 廊下のざわめきの中から、時折、雨に対する不満が湧いて出ては消えてゆく。この季節、雨が降った後のアスファルトはスケートリンクのようによく滑る。転倒して怪我をする生徒は多い。
 凍り始めないうちに帰ろうと思い、大河は鞄を手にして歩き出したが、ふと立ち止まった。
 大勢の生徒が同じ制服を着て廊下で群れ、犇めき合っているのはよく見慣れた光景ではあるが、その中に一つ、異質なものを発見した。
 服装は他とまったく同じだが、どこか浮いている。他生徒から、そこだけモノクロで浮き上がっているように見えた。
 伊織だった。

「なん……」

 言いかけて瞬時に口を噤んだ。どうしてここにいるのかと目を瞠っていると、彼女が小走りで近づいてきた。他生徒と衝突しても相手を擦り抜けて通過する様は、彼女が幽霊であると分かっていても異様なものには違いなかった。
 屋上の、あそこからは出て来られないのではなかったのか。疑問に思うと同時に、それとは別の失念に気が付いた。
 伊織にあれだけ念を押されたというのに、頼まれた仕事を果たしていなかったのだ。すぐに頭の中で、どこにしまっただろうか、鞄か、ポケットか、と思考を巡らすが、伊織の第一声は大河が予想していたものとは違った。

「渡してくれてありがとう」

 伊織を見下ろしながら、はた、と大河の思考は停止する。
 渡した? いつ?

 二人の存在が見えていないかのように、生徒が素知らぬ顔で過ぎてゆく。そこだけ空間が切り取られ、マジックミラーで覆い隠されたように、誰も気に留めない。大河にさえ気づかず、通行人が大河に衝突する……かと思うと相手は身体を擦り抜けて既に反対側に移動している。
 伊織が大河の右手を握っていた。

「出来るものなら自分で渡したかったんだけど、私、幽霊だから普通の人には見えないし……大河君がいてくれて良かったよ」
「いや…渡した覚えはねえぞ」
「渡した筈だよ」

 両者の食い違いに、大河は訝しんだ。どういうことだと眉を顰める。把握できないでいる大河を置き去りにして伊織は語り始めた。

「私、ピアノ習ってて、暇さえあれば音楽室で弾いてた。彼は私の幼馴染で、偶に聴きに来てくれた。今思えば私の恥ずかしい勘違いだったんだけど……ただの暇潰しだったんだよね、きっと。でも私友達いないし、来てくれるのは彼だけだったから、好きになっちゃったっていうか」

 他人の恋愛話ほど退屈なものはないが、大河は黙って聞いていた。

「この間も話したけど、思い切って告白して、ふられて、誰か知らないけど言い触らしてクラスとかに広まって。彼は結構有名人っていうか……目立つタイプだから余計に。私は虐められて。それで……死んで。別にふられたことは関係ないと思うんだけど……耐えられずに。でも、彼は、私が死んだのは自分のせいだと思ってるみたいだから、それは違うよって伝えたくて手紙を、書いたの」

 周囲の雑音は消し飛んでいた。今、大河の耳に流れ込んでくるのは雑踏でもなく、ざわめきでもなく、無理に明るい声を作った少女の細い声だけだ。

「あー……、前に、死んでよかったって言ったけど嘘。やっぱり死ななきゃよかったなあって、今更になって思うんだ。会いたかったなあ……路人君に」
「は……」
 
 大河が次に言葉を発する前に、右手から伊織の両手が離れて、それから彼女自身が消えた。途端、背中に衝撃を受けてよろめく。肩越しに振り返ると、大河自身よりも驚いた顔をした男子生徒が茫然と突っ立っていた。

「あ、ご、ごめんっ……」

 相手はそそくさと立ち去ったが、大河は言葉を失ったままその場から動くことが出来なかった。

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