密室アクアリウム

(15)

 大河に何の弱味もなければ、こんな拘束、容易に抜け出して相手を失神寸前まで殴っていただろう。しかしながら生憎、行動に繋がる心に重い枷がかけられている。
 男に興味があるだとか言っておきながらも、宇佐美は本当に行為に及ぶつもりはないということを大河は確信していた。いつ教師が戻ってくるかという危うい状況なのだ。宇佐美は馬鹿ではない。それは念頭に置いている筈だ。
 けれどそれとは別に、責め苦は止まなかった。八つ当たりだと宇佐美は言った。大河にショックを与えて楽しみたいだけ、なのだろう。今までも宇佐美は自分が愉悦に浸るために虐めを繰り返してきたのだ。大河も例外でなく、こうして好き勝手に嬲られている。事実、大河の心は悔しさと恥辱で満たされていた。

 どうしてこんな目に遭っているのかと。どこで間違ったのだろうと。頭の中で反芻するが、考えても栓ないことなのは明らかだった。窮境を脱するにしても、それは逆に宇佐美の思う壺になってしまう。宇佐美には写真という切り札がある。
 逃れたいという本能の主張と、逃げても無駄だという理性の間で行われる矛盾した争い。どうするのが一番賢い選択なのだろう。大河には、分からない。

「くそ……っ!」
「すげ……もうパンツ濡れてんの分かる?」
「……黙れっ…ひ、ぅ」

 耳元に、揶揄する宇佐美の息がかかる。大河の雄は相手の手によって高められ、大きく形を変えていた。触られていることは死にたいくらいに嫌なのに、身体は気持ちに反比例して顕著な反応を示す。内股が、引き攣る。靴の中で耐えるようにピンと張った足の指が攣りそうだ。

「はは、男に手コキされて喘ぐって最悪だよね。これがイイってんなら相当のマゾかホモだけど」
「黙れっつってんだろ……!」
「な、男に触られるの初めて?」

 瞬間、大河の頭の中にある情景が浮かんできた。同時に下着を押し上げる亀頭部を強めに握られて喉の奥から引き攣った声が漏れた。

「つか、初めてじゃなかったら怖いんだけど。まあ普通の男なら一生、同性にいかされるなんて経験する訳ねーか」
「っ……」

 虚ろで、冷たくて、何を考えているのか分からない、真っ黒な瞳。まるで当然の行為をしているかのように無言で触れてくる、不思議な温度の手。あの手で一度。

(……忘れろ、あんな野郎)

 大河は固く目を瞑った。もう何も見たくない。何も感じたくない。全てを投げ出してしまいたい。
 それなのに、頭の中には執拗に、あの亡霊の姿が浮かぶ。傷口に舌を這わせる犬飼の無表情。彼にも、こういう風に触られた。どんな意図があったのかなど知らない。知りたくもない。
 視覚を失くすと、他の感覚が研ぎ澄まされる。どうしてか、今、大河に触れているの宇佐美と、あの時の犬飼が被る。

 今、何処にいるのか。何をしているのだろう。
 大河が消えろと罵った、犬飼は。

(俺のせいか)

 あんなこと、言わなければ良かった、のかもしれない。肝腎な時に犬飼がいないのは、自分が自ら拒絶したからだ。
 突き放さなければ、今も彼はここにいたのだろうか。大河から離れずに執拗に付き纏い、…守ってくれただろうか。……守る?
 下らない考えばかりが浮かび、消え、浮かぶ。
 後悔しても遅いことは百も承知だと、自嘲するしかない。


「――何してんだお前らっ!!」

 講義室の戸がガラリと開かれたのは、大河が皮肉げに唇の端を上げた時だった。

 その人物の声では滅多に聞かない、怒号。ぴたりと、宇佐美の動きが止まった。硬い声音で「先生」と言った。信じられないとでも言いたいような、あるいは予想していたよとでも言いたそうな、どちらとも取れる響きだった。大河の耳元から息遣いが遠のく。

「大事な追試だって分かってんだろうな!? 不正行為だぞ、単位落としてもいいのかお前ら!」

 大声を教室中に響き渡らせながら柏木が荒々しい足取りで近づいてくるのが分かった。柏木の怒りを反映して、窓が震えそうな程だった。乱暴な所作で宇佐美を大河から引き離す。大河は震える腕を叱咤して上体を起こし、二人に背を向けて座った。
 
「馬鹿っ、テスト受けててどうして喧嘩になるんだ。流石にフォローしきれないぞ」
「……すいません」

 宇佐美のか細い声を背中で聞きながら、大河は溜め込んでいた鬱々とした息を吐いた。
 救われた。一瞬はそう思ったが、高められた身体は熱く、快感はとても引きそうにない。下半身で燻る中途半端な熱に、腰をもぞりと動かす。興奮した雄は下着の上から形がはっきりと分かるくらい激しく主張していた。
 
「一体どういうつもりなんだ。二人とも、単位落としてもいいのか。特に仲宗根、お前はかなりまずいだろ。留年の危機だろうが。……宇佐美、お前それ鼻血か? 早く拭け、酷い顔だぞ。仲宗根、お前も立って。話は指導室で聞く。ほら」
「……」

 宇佐美の行為が止んだのは歓迎されるべきことだが、果たして柏木が駆けつけたのは結果的に良いことなのか悪いことなのかは分からない。
 少なくとも折角、柏木が喧嘩だと誤解している以上、今の大河の身体の状態を知られるのはあまり良い事ではない。

「……床に転がってるこれ、シャツの釦か? 仲宗根のか? 宇佐美がやったのか? ……うわ、床の血酷いな」

 黙っている訳にもいかず、怠惰に立ち上がって、ずり下がったボトムを上げた。ジッパーを上げベルトを締めるが、下着が濡れる程に勃起した性器が収まるには窮屈で仕方がない。擦れる感覚に唇を噛んで耐える。柏木の不審な眼差しが背中に刺さって痛い。

「おい、仲宗根……」
「……便所行かせろ」
「え!? あ、おい、ちょっと」

 擦れ違い様に、腕を掴まれる。逃げるなと、柏木の目が責めていた。責めると同時に何かを探るような窺いの眼差し。大河の両目をじっと捕えて離さない。快楽で薄い水分を張った眼球の表面から大河の内に燻っているものの正体を暴きはしないかと不安でならない。
 逸らし、腕を乱暴に解く。有無を言わせぬ含みで「生徒指導室」と告げる柏木の声を背中にして講義室を去った。

 何事にも頓着しなさそうな風に見えて案外に敏いあの教師は、数分前まで講義室で行われていたのが喧嘩ではないことを察しただろうか。大河の震える腕に、脚に、気付いただろうか。
 ぼんやりと、もし、と想像する。……結局、悟ろうが悟らまいが、どっちだっていい。もう、どう思われようが、そんなことは考えるべきではない。どう足掻いても負の連鎖は断ち切れないだろうから。
 もう、どうでもいいのだ。

「っ…」

 心境に反して身体が高揚しているのが、それだけが酷く滑稽だった。

53/96 過程

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