密室アクアリウム

(14)

 大河は立ち上がって視線の高さを宇佐美に合わせたが、机がなくなって、より二人の距離が近づいたような錯覚が生じる。いや、錯覚ではない。陰の差した宇佐美の顔は暗く沈み、追い詰めるようにじりじりと迫っている。彼の中から得体の知れない怨嗟が聞こえてきそうで、大河の頭の中では警鐘が鳴り始めた。一歩、後退する。

「馬鹿にすんなよ。俺、この間、放課後残れって言ったよな? 聞こえた?」
「忘れてたんだよ」
「それは有り得ねーだろ。普通忘れるか? 俺が残れって言ったら残れよ。従順でいろって」
「俺を留まらせて、てめえはどうする気だったんだ」
「今更聞いても無駄だろ。何も起こらずに過ぎたことは気にすんなって。それより今後のこと」
「……」
「あいつを説得できなかったんだろ? 俺に何か言うことないの」

 もしかして謝れと、償えと言うのだろうか、大河に。そこまでする必要があるのだろうか。
 失敗したのは大河の責任ではないんじゃないかと、今思うのだ。藤川への要求に宇佐美の名を出した以上、どうするかを決断するのは藤川自身の意思であった筈だ。藤川がそれを拒んだということは、宇佐美の力が思った程に発揮されなかったということにはならないか。
 ……いや。きっとならないのだろう。しくじったのは自分で、宇佐美ではない。そういうことだ。
 大河は自分で気付かない無意識のうちに相手を睨みつけていた。今、宇佐美を刺激してはならないことは分かっているのに、癖というものは恐ろしい。

「何だよ、その目。睨んでんなよ。仲宗根、状況分かってんの? 俺、お前の弱み知ってんだよ」
「馬鹿みてえに何度も言われなくても分かってんだよ」

 十二分に理解しているつもりだった。だから大河は更に宇佐美と距離を置いた。

「お前は失敗したんだよ」
「……だったら何なんだ。お前はどうするつもりなんだよ」

 失敗したからと、あの画像を添付したメールをクラス全員に送るのか。それとも変わらず大河を利用し続けるだけなのか。それともまた別の。おぞましい行為を強要するのか。

 大河は一歩、後退する。そして黒板に上に掛かっている時計を見た。試験終了まであと四十分もある。秒針が進むのが分針ほどに酷く遅く感じて、苛立つ。柏木を待つよりも、職員室に乗り込んで試験妨害を訴えた方がいいのか。

「――あ」

 宇佐美が弾かれたように教室の外を見た。つられて顔を向けたが教師が立っているのでもなく当然のように何の変化も見られない。隙をついた宇佐美が素早い行動を見せた。

「っ……!」

 前振りも何もない、強烈な体当たりを食らって体勢を崩した大河は周囲の机に強かに背中を打ちつけた。背ばかりか、後頭部も強打する。鈍い痛みに、瞼の裏で星が散った。
 思わぬ攻撃に舌を打つより早く、宇佐美は大河の身体を押し倒すと上に圧し掛かってきた。

「てめっ……どけ!」
「……仲宗根ってマゾなの?」
「はあ?」
「何で平気な顔していられんの。俺、お前が一番して欲しくないことをいつでも出来るんだよ? ケータイも今持ってるし。何で大人しくしてらんねーんだよ」
「…何が言いてえんだよ」
「実は、仲宗根にとってマズい状況に転ぶことを望んでんじゃねーのかって」
「そんな訳あるか! 変態じゃねえんだよ、俺は」

 手首を捉えようとする捕縛の手から逃れながら、大河は部屋の入口を見遣った。誰が見ても喧嘩と答えるような今の状況で柏木が入ってきたら。本来は大人しくテストを受けている筈の今、不正行為の扱いとなることはほぼ確実だろう。そうなると後々に大変厄介なことになる。

「へえ、変態じゃなかったんだ? 学校で自慰してたくせに」
「っ…」

 それを指摘されると反論する術がない。たとえ誤解だったとしても、その誤解は少し歪曲された紛うなき真実であることを大河も認めざるをえないのだ。

「またしゃぶらせてあげようか? それとも今度は俺がしようか」
「下らねえ冗談言ってんな、マジぶっ殺すぞ」
「冗談はそっちだろ。言葉の割に何も出来ないくせに……」

 宇佐美の手が大河の股間に伸び、そこを強い力で鷲掴みにする。瞬間、酷い嫌悪感を覚え、ほぼ反射的に宇佐美の腹を膝で蹴り上げた。それに留まらず、相手の顔面を力加減なしに殴りつけた。
 これ以上はシャレにならない。

「ぐあ、ッ」

 ぽた、ぽた、と制服に連続的な軽い何かを感じたと思うと、宇佐美の顔から血が滴り落ちているのが目に入った。いくら手で押さえても鼻血は隙間を縫って漏れ出し、大河の制服の上に暗い色の染みを作り出す。赤い。
 この際、テストとか不正とかはどうでもいい。馬乗りになったままの宇佐美の下から抜け出そうと大河はもがいたが、腹部に重い衝撃を受け床に寝転がったまま身体を折った。

「ふ、ぐっ…!」

 相変わらず流れ出す鼻血も止めないまま、宇佐美がきっと彼自身の出せる精一杯の力で腹部を殴りつけてくる。下敷きにされているという不利な体勢ではろくに対抗することも叶わず、大河は滅多に経験しない集中攻撃に遭った。胃から酸っぱいものが込み上げ、喉を焼く。思わず噎せ、酷く咳き込んだ。

「ほんっっっと分かってねーんだな、仲宗根。立場ってのがさあ!」
「ぐぅっ」

 血がべっとりとついた拳で顔面を殴られる。本来であれば大河が押し倒され劣勢に陥るという状況は有り得ない。しかしそれは飽くまでも「一般」であり、これは「例外」だ。「一般」を発揮できないのは大河の精神を制限する重石があるからだ。

「八つ当たりだって思ってんの? 確かに八つ当たりだけどさ、どうしようもねーだろ」
「な、にがだよ…ッ」
「音楽室で、使えそうなネタ見っけて、これは使うしかねーだろ。まだ藤川の面見てなきゃならないって分かったら、もうお前に当たるしかねーんだよ……!」
「お前、藤川と何が、っ」

 相手の顔には一瞬、憎悪のようなものが浮かんだが、何の答えも示さない。前が開けっ放しのブレザーは容易に宇佐美の手の侵入を許した。掴み引き千切るという表現が正しい乱暴な動作で中のシャツを左右に引っ張られると、釦が辺りに弾け飛ぶ。
 額に脂汗を浮かべながら、大河は誤魔化しようもなく怯んだ。それを察した宇佐美が引き攣った口元で笑った。

「俺だって分かってんだよ、仲宗根にこんなことしても何の解決にもならねーって」
「分かってんならやめろよ! お前は何がしてえんだ、藤川は何なんだよ」
「あいつは……」

 息を飲み込んだ宇佐美は突然、激しく咽た。当然、鼻血はまだ止まっていない。誤って飲み込み、気管に入ったらしかった。咳き込み僅かに浮いた宇佐美の身体の下から這い出ようとしたが、俯せになった途端に肩甲骨を変に圧迫される。ゴリ、という重々しい音が自分の身体から聞こえた。

「うさっ、宇佐美……!」
「何だよ、仲宗根のくせにビビってんの? 無理矢理とは言えオーラルは出来たんだからさ、普通のセックスだって頑張れば出来るんじゃねーの?」

 どんな思考回路してんだと、痛む腹も忘れ必死になって暴れるが、身体の下に潜り込んだ相手の手に急所を鷲掴みにされると息を呑む。嫌な汗が額から流れて床に到着した。
 冗談じゃない。

「いや、俺だって普通に女の子が好きだよ? でもちょっと興味湧かね? 男。健全な男子高生にこの好奇心、分からん?」
「分かる筈ねえだろ、クソッタレ……!! 頭オカシイだろ、てめえ、どこが健全だっ」
「つーか暴れんなよ。握り潰すよ、これ」

 身を強張らせている間に自分の腰元でカチャカチャと金属同士が衝突する音が小さく鳴り、大河の中で焦燥感が増幅する。逃げ出そうにも全体重をもって脚の付け根に乗り上げた宇佐美からは、傷のついた床に手の平をついて亀のように前進することしか叶わない。
 股間を容赦なく握り込まれると、決して快くない鋭い刺激で腰が浮く。

「いい加減にしろよ仲宗根。無理だってわかってんのに何で逃げようとすんだよ。そういうの徒労って言うんだよ。知ってる?」
「知らね……、っな、あ!」

 ボトムの中に侵入した手が下着の柔らかい生地越しに性器を包み込み、全体を柔く揉みしだく。最初は嫌悪と絶望。だが次第に、硬直した身体の力がほぼ強制的に抜けてゆく。硬い拳を作った両手のやり場が不明で、苦しいのか悔しいのか悲しいのか自分でも分からないまま、数多の靴裏に踏まれた床を引っ掻くように爪を立てた。

「やめろ、宇佐美っ…触ん、触んな…!」
「うわ、良かった、安心した。仲宗根って打たれ強いから、痛み同様快感もさ、チンコ触っても何も感じないんじゃないかって心配したけど、すごい杞憂だった、はは」
「笑ってんじゃ、ねえよ……ッ」

 とうに余裕も底をつき、いつの間にか息を荒くさせる大河の身体は、生理現象に逆うことなく昂ぶっていた。そう言えば最近は、処理を疎かにしていた。そういう時間を持つのも億劫で、何より精神に余裕がなかったからかもしれない。鬱蒼とした気分で唇を噛み、後悔した。
 宇佐美の手によって施される中途半端な弱い刺激で、中心は熱を持って硬くなり始めていた。下着一枚を隔てて変化の様子を知った宇佐美は、笑いを抑えるようにして詰まった声で囁いた。

「ごめん、全然インポなんかじゃねーじゃん。寧ろ早くね…?」
「っう……あっ」

 大河の意思とは無関係に細かに震え浮き上がる腰は制御しようもなく、宇佐美の好き勝手にさせる手助けをしたと同然だった。宇佐美が身体を浮かせ、大河のボトムをずり下げようとする。
 今だったら逃げ出せる。
 咄嗟に身体を捩ろうとしたが、変わらず刺激されっ放しの性器の先端を指の腹で強めに擦られると、気力さえも奪われそうになる。人工の生地が鈴口を攫う慣れない感覚に、先端に粘着性のある液体が滲む。

「こら、逃げんな」
「うゥっ……」

 床についた肘の先が痺れているようで、冷水に浸かったように冷たい。そこだけが異常で、他は熱かった。
 宇佐美は片手でもどかしい刺激を施し、もう片手で再びボトムを脱がせようと奮闘している。それに抵抗するように、さっきより自由に動かせる脚で床を擦った。スニーカーと床とが擦れる、キュという高い音。

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