密室アクアリウム

(13)

 暗澹たる心境とは、どのような状態を指すのか。学のない大河には正確なことは分からないが、今の状況は暗澹と言えば暗澹を言える気がする。前途が霧に覆われて見えなく、言いようもない不安に駆られる。
 そんな負の感情が僅かに和らいだものの、やはり完全なる安堵は出来ない土曜日の朝だった。

 あの日の放課後、大河はすぐに帰宅した。宇佐美との一方的な約束を忘れていた訳ではない。SHRが終わり放課後の騒然の中、宇佐美の刺さる視線に気づきながら気づかない振りをして早急に教室を出た。

 どうして宇佐美を無視したのか。理屈ではない何かで、宇佐美の言葉の端々から滲み出る苛立ちというものに本能で危険を感じ取ったと言えばそれで済む話だった。とにかく、あの日は宇佐美と話してはいけないと思ったのだ。

 土日になれば宇佐美と顔を合わせる必要もない。休日をこんなに待ち遠しく思ったことはなかった。たとえ、一日中の追考査が待ち受けているとしてもだ。

「ほいじゃあ、先に講義室行ってて。あとからテスト持って行くから勉強でもしてろよ」
「受けるのは俺一人だけか」
「一応な。だからカンニングは出来ないぞ。あ、まあ最後にもう一人来るけど」

 という訳で、職員室で準備をしている柏木を置いて講義室へ移動する。
 午前三科目、午後二科目の日程で今日の追考査は行われる。残り四科目はまた後日となるが、いつ何を受けようが前もって試験勉強はしていないのだから科目に関して一喜一憂する必要はない。数学でも英語でも世界史でも、問題を見ても分からないし「仲宗根大河」と名前だけ書いて残り時間は寝ようかという考えにさえ至る。

 しかし流石にそれはあんまりかと思い、結局は一通り問題に目を通した。そうして一科目ずつ片づけていると、今日最後の科目である古典の時間になった。

 これが問題だった。
 柏木が言った「もう一人」が。

「んー、じゃあ……仲宗根の対角線上に。離れて座ってくれ」
「うぃっす」

(な……)

 柏木が「もう一人」の生徒を連れて、古典のテストを携えてやって来た。窓際最前に座る大河と最も離れた廊下側最後尾に、その生徒を座らせる。――宇佐美だ。

(あいつも追試なのかよ)

 途端、比較的平穏だった筈の土曜日が陰惨な休日になった気がした。気分から、額に変な汗が滲む。すぐ傍に暖房があるが、そのせいではないだろう。
 振り返ると、目が合った。大きな失態を犯してしまったような気分になって即座に前を向くが、一瞬、宇佐美が笑ったように見えた。いや、確かに笑っていた。大河を見て笑っていた。やはりそれは不吉だった。
 そしてこういう時に限って、運は大河を見放す。

「んじゃ、くれぐれもカンニングはするなよ。二人で協力して解くのも駄目だからな」
「…、…」

 大河が物を言う前に「じゃあ時間になったらまた来るから」と言い残して柏木は颯爽と講義室から消えた。さっきまでの科目も、きちんと試験監督の仕事を果たしたりサボったりと気まぐれな行動をしていたが、よりによって宇佐美と二人きりにされるとは。

「……」

 宇佐美が何かしてきたら、とかではなくて、この空間に二人きりというのが息が詰まって仕方なかった。静かに動く時計の秒針の音と、後方から聞こえる黒鉛と紙とが擦れる硬質な音だけが全てを支配していた。時間の流れは異常なほど、普段の授業の時より遅く感じる。
 早く終われ。そして柏木早く来いと何度も念じながら大河は壁にかかった時計を頻りに見遣る。

「――…」

 ……時折、痛いほど感じる視線。背中に容赦なく突き刺さっては大河を切迫するようなそれは、宇佐美以外に考えられない。思わず振り返りそうになるのを堪え何とかやり過ごしていたが、突然、均衡は崩れた。
 ガガガ、という椅子を引く音によって。

「暇」

 と宇佐美は言って、立ち上がったようだった。試験開始から二十分が経過していた。
 この男は何をするつもりだ。試験中に立ち上がって。黙って座って問題を解いていればいいものを。
 その時、大河は飽くまで何も聞こえていない振りをして、眠っている振りをして机に突っ伏していた。宇佐美が近づいてくる足音を聞いても、全く意に介さない風を装っているつもりではあった。
 それを破ったのは、宇佐美が大河の正面まで来て、机上に放り出された手に触れた時だ。さっきまでシャーペンを握っていた宇佐美の手に手首を拘束するように握られ、伏せていた顔を反射的に上げた。

「超、暇。テストなんかやってらんねーよな。怠すぎ」
「……だから何だよ。手ぇ離せ」

 宇佐美の動向に注意を払いながら、同時に手も払う。いつ柏木が戻るかも知れない状況で堂々と接触を図ってきた宇佐美に、困惑していた。

 宇佐美は、大河が思惑通りの結果を出せなかったことに憤っているのか。藤川を登校させないという命令を聞けなかったことに不満を抱き苛立っているのか。どちらにせよ、口角は上がっているものの目は不相応に冷え切っていて、宇佐美が不機嫌であることには変わりない。
 失敗したら単位を落とすかもしれない追試中に問題は起こしたくない。大河が相手にしない態度を取ると、今度は机を蹴飛ばした。姦しい音を立てて倒れる。宇佐美の眉間に皺が刻まれているのを大河は初めて見た。

「何なんだよお前、何だその態度、ムカつく……」
「……ああ?」

 使い古した短い訊き返しが、実は震えていたことに大河は自分でも気づいていた。宇佐美のものではないような憎々しげな声音は、過ぎた憤りと痛みに堪える呻きを孕んでいる。

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