密室アクアリウム
(12)
「仲宗根ー、ちょっと」
ガラリと開け放たれた戸から柏木が顔を出すと、大河に向けて手招きをしてみせた。入口周辺の女子が「にしきん寒いー閉めてー」と非難の声を上げる。大河が教室から出てゆくと吹き抜ける冷気から教室の温まった空気が漸く守られた。
ここ最近、異常なくらいについていない。不運だ。十七年間の人生の中で最もツキのない時期だと嘆かずにはいられない。
昨日、藤川と揉めているところを柏木に見られたのは、一番新しい不運だろう。明らかに大河が藤川を殴ろうとしている場面だった。逆に、柏木が来なければ殴っていたと思う。
柏木はその件で話があるのだろう。……とても厄介だ。どう言い逃れするか。それを考えながら柏木の後についてゆくが、妙案が浮かばないうちに進路相談室に着いてしまった。
「仲宗根、お前さ。これ何よ」
しかし柏木が切り出した話題は大河の予想を裏切り、彼が差し出した空欄の目立つ……というか未記入の用紙を見れば、ああこんなものがあったかと複雑に錯綜した記憶の彼方から思い起こす。いつ出しただろうか。
「もう二年も終わるんだぞ? 進学か、就職か。それくらいはそろそろ決めないとヤバいだろ。まあ……お前の学力を考えると進学はちょっと……って感じだけど」
「じゃあ就職で」
「そんなにあっさり決めていいのか? 親にも相談した?」
「……てねえよ。会わねえし、電話で話もしねえし」
むすっとした態度で白状すれば、柏木は腕を組み背もたれに疲労も押し付ける勢いで反った。そして呆れたような視線を投げてくる。
正直、進路のことなど一回も真面目に考えたことはない。というか考えられない。
時が経てば自然と考えるようになると思っていたが、なるようになるだろうとしか今のところ言えず、進学するにしても就職するにしても、一年後に慌ただしい時期がやってくるということも想像できない。
「正月に帰ったんだろ? 進路の話はしなかったのか?」
「してねえ」
即答すれば、柏木は心の底から困惑したような重い溜息を吐いた。
「頼むから、今年度中にはちゃんと話つけてくれよ。……まあどうせ就職だろうけど」
「じゃあ別にいいだろ」
「そうは行かない。親の許可もちゃんと貰って来い」
ずい、と進路調査票を突き返される。受け取ることは受け取ったが、再提出する日が一体いつになるのは大河自身も見当がつかない。この、綺麗なまでの空欄に文字が埋まるのだろうか。
「そう言えば、この間……講義室でのことなんだけど」
やはりこの話題を持ち出され、大河の心境は一気に重くなる。訊かれない筈はないと心得ていたのに、切り出されるとどうしても。
今更だが、もっと一目に注意を払えばよかった。
「お前、藤川と何してた?」
「別に。ただ話してただけだ」
「友達だったっけ?」
「連れじゃなかったら話しちゃいけねえのかよ」
まあ確かにそうだけど、と柏木は苦笑する。
「でも何であの時、走って逃げたんだよ。疾しいことでもあるのか?」
「……あんなの、条件反射だろ」
「別に逃げなくってもいいだろうが。ん?」
やけに追及が執拗で、大河は眉間に皺を寄せて不愉快を示した。まるで何かしら確信を持って取り調べに臨んでいる刑事のように、今にも意地の悪い笑みを浮かばせそうに柏木は大河の顔色を覗いている。
本当は知っているんじゃないのか。
言葉を返すことが出来ず、無言を貫く。
「まあ……生徒の交友関係に教師が口挟むのも何だけど」
「あ?」
「藤川に関してはあんまりいい話聞かないからな。付き合うなとは言わないが、気をつけろよ」
「……宇佐美は?」
「は? 宇佐美? 何で?」
「いや、いい。何でもねえ」
藤川は気をつけろで、宇佐美は安全地帯。……逆じゃないのか。宇佐美に脅迫されている大河にとっては今の話に信憑性があるとは思えない。
誤魔化したものの、若干腑に落ちない表情をしている柏木を無視して立ち上がる。去り際に「調査票早めになー」と念押しされ、少し煩わしい。留めとばかりに「今度の土曜日、対考査だから学校来いよ」――失念していたと言えば失念していた。
教室に戻る途中、講義室を通り過ぎた時に見知った人影があるのに気づいて思わず立ち止まった。
――宇佐美と藤川だ。
(あいつ、学校来てんじゃねえかよ)
つい舌打ちしてしまい、通りかかった生徒が驚いて大河を見た。
昼休みの騒然さで廊下にいると話の内容は一切聞こえない。けれど藤川の身振りからは怒鳴っているのが分かる。口論。
暫くして藤川が、怒りでか顔を赤らめて飛び出してきたが、大河には気付かずに去ってしまう。後からのんびりと出て来た宇佐美は大河を見ると「あーあ」と残念そうに呟いた。少なからず苛立ちが含まれているように感じた。
それが何となく不吉だった。
藤川が学校にいる、ということは大河の交渉という名の脅しは無効だった訳だ。つまり失敗したのだ。宇佐美の言う通りに出来なかった。
それがどんな結果をおよぼすか、考えても宇佐美の頭の中は想像できないし理解不能だ。それでも良い方向に転びはしないだろうということは流石に分かる。
「何であいつがいるんだよ」
「……」
「仲宗根、放課後ちょっと残ってよ」
底冷えした瞳の奥に隠れた狂気の端が見えたような気がした。そうしてすぐに人の良さそうな笑みを浮かべる。
今度は、何か。それを考えると前途が思いやられて憂鬱になる。大河は何も言わずに教室に戻った。
50/96 過程