密室アクアリウム

(10)

 屋上へ続く階段を上ると、一番上の段に伊織が座っていた。大河の姿に気がつくと、へらりとはにかんだ笑顔を見せる。

「置いてきてくれた?」
「……まだだ」

 正直に告げると、伊織は意外そうに首を傾げて瞬きをした。

「まだなの? 置いてくるだけなのに」
「色々あって忘れてたんだよ」
「色々?」

 伊織の反問を受け流し、彼女から三段低い位置に腰掛けると足元を冷風が過ぎていった。

「色々って何?」
「何でもいいだろ、別に」

 何も起こらなければ無事に「手紙を音楽室に置いてくる」という至極簡単な依頼を片づけることが出来た。けれど予想も出来ないハプニングが発生してしまい、予定と調子を狂わされてしまった。
 しかも不幸なことに、連鎖的に厄介なことが起こった。大河にとって手紙どころではなかったのだ、忘れるのも仕方がなかった。
 それに、あんなことがあった場所だからあまり行きたくない、という気持ちも少なからずあった。
 伊織が「ふうん」と曖昧に相槌を打つのが背中に降りかかり、「あれ?」と間の抜けた声が次いで聞こえた。それを無視してコンビニのパンに噛り付く。

「今日、犬飼君はいないの? 一緒じゃないの?」
「……」

 どうして二人セットみたいな言い方を。
 伊織に罪はないのに反感のようなものを覚えてしまい、大河は口内の食物をなくすとぶっきらぼうに言う。

「いねえよ。どっか行った」
「……何で?」
「知らねえよ、そんなの。飽きたんじゃねえの」
「何に?」
 
 口から出た誤魔化し。けれど案外に、飽きたというのもあながち間違いではないかもしれない。
 駅のホームで会ってから、一度も姿を見ていない。突き放したのは大河だ。犬飼に、いらないと言った。
 しかし大河の事情だけでなく……もしかすると犬飼自身、大河の傍にいるのが嫌になったのかもしれない。
 以前は散々に消えろと言っても執拗に大河の後をついていたくせに、今あっさりと諦めて姿を眩ましたのは、もう流石に嫌気が差したのではないか。今までの自身の態度を思い返してみると否定できない。

(嫌気も何も、あいつが勝手にしてることじゃねえかよ……)

 最初から頼んでなどいなかった。だから大河に何を言われいなくなったとしても犬飼自身の勝手であり、「消えちまえ」の言葉に素直に消えてくれたのは、今の大河にとっては気が非常に楽だった。
 もし今ものうのうと隣に座られていたら、大河がどうにかなってしまいそうだ。思い出してしまうだろう。温度のない目で、手で、無表情に触れてくる幽霊の存在を。拒絶の言葉を拒絶して包み込む冷たい温もりを。
 それなのに、隣がいやに冷たく感じるのは何故だろう。
 心は楽なのに、清々としないのは……。

「私はピアノしか興味なかったから、人のことなんて全然知らなかったんだけど、犬飼君て結構、人気あったんでしょ?」
「ああ……そうみてえだな」
「頭も良いし、来年は関東の難関大受験する予定だったらしいって話してるのを聞いたの。なのに事故で死んじゃって……何だか可哀想だよね」
「可哀想?」

 同情の言葉に、心臓が針で突かれたような痛みを感じた。
 可哀想。残念。もったいない。悲しい。
 そういった言葉をあちこちで耳にしたが、何が可哀想なものか。犬飼が死んだのは偶然の交通事故ではないと本人が言っていた。彼は、大河が原因で死んだも同然だった。
 頼んでもいないのに勝手に守ろうとして、結果殺されて。本人は馬鹿くさいとは思わないのか。
 大河にしてみればいい迷惑だ。罪悪感のようなものが喉から込み上げて潰れそうになる。
 重いのだ。どうして大河のために死ねる。

「可哀想なんかじゃねえよ。自業自得だろ、あいつは」

 犬飼の存在が、重い。

「……どういうこと?」

 気付くと伊織が目の前に立っていたが、一瞥してすぐにパンを齧る。犬飼の話はこれ以上したくなかった。代わりに「お前は何で死んだんだよ」と、何となく訊いてみた。

「虐めが苦で死んだってのはよくある話だけど、私の場合もそれだよ」
「……」

 訊かなければよかった。余計に空気が重くなってしまって、話題を変えたことに後悔する。そういえば飛び降り自殺だと言っていたか。

「好きな人に告白したら振られちゃって、誰かがそれを周囲にばらしてね、私もともと暗くて地味で友達もいなかったから、みんな面白がって私を虐めるようになったんだよ」
「……虐めって下らねえことで始まるな」
「うん。本当、馬鹿みたいだよね。……でも死んでよかったと思う。あの人に迷惑が掛かるのは嫌だったから」
「あの人ってのは、手紙の相手か」
「そうだよ」

 しかし、幽霊から手紙が来たら驚くどころか怖がるのではないか。

「私が死んだのはあなたのせいじゃないって伝えたくて、書いたの。本当は直接伝えたい。けど私の姿は見えない。だから大河君に渡してもらうしか……」

 相手の縋るような視線に気づいて顔を上げる。そこには、自分一人の力では思いを遂げられない少女の姿がある。初めて見た、悲嘆に暮れた表情。制服の裾を握り俯く伊織に、大河はいつの間にか言葉を掛けていた。

「ちゃんと音楽室に置いてくるから、安心しろよ」

 所詮は気休めの言葉に過ぎないけれど、大河が出来ることと言えばこれくらいしかないのだから。

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