密室アクアリウム

(8)

 その日、犬飼が現れたのは、大河が絶望に落とされてから間もなくのことだった。
 あれから何度も何度もウガイを繰り返して、トイレを後にした。教室に戻ると既に彼らは帰ったようだった。
 冬は暗闇が訪れるのが早く、窓の外は真っ黒だったので大河も足早に学校から出た。
 電車に乗り、自宅最寄りの無人駅まで。

 ホームに犬飼が一人、立っていた。
 他に誰の影もない。

「……」

 たった一日見なかっただけなのに、数日もいなかったように感じるのは何故だ。そのことに苛立ち、大河はそこに佇む存在を無視して通り過ぎようとする、が腕を掴まれると足の動きは止まった。

「仲宗根」

 引き止めるその声に、大河は叫び出しそうになる。好きなように怒鳴り散らして殴ってやりたくなる。

「……ざけんな。お前、俺を守りたいんじゃなかったのかよ」

 言うつもりはなかった言葉が舌に乗せられて発せられるのを他人事のように聞いていた。自分の声だというのに、まるで他人のもののようだ。低く、煮立った憤りが込められた、呻くような声。砂利を擦るような不明瞭さで犬飼には届いた筈だった。
 何を、どうでもいいことを責めているんだ、自分は。

「全然、出来てねえじゃねえか。守るどころか、お前のせいで……!」
「……悪かった」

 悪かった。それは聞いた。何が?
 確かに謝罪の言葉が聞こえた。しかしそれは余計に大河の怒りを煽るだけだった。
 単純に謝って欲しい訳ではない。大河自身が惨めになるだけだ。

「今日、俺が何をしてきたか分かるか?」
「……」
「お前が音楽室であんなことしたから、……結果的に俺は男のものをしゃぶる羽目になったんだよ! 考えられるかよ。どうして俺がそこまでしなきゃならねえ?」

 脈絡のない内容で、犬飼に伝わったかは定かではない。真っ直ぐに犬飼を射抜くように見ると一瞬、黒い瞳が揺れたように見えたが、きっとそれは人工的な薄暗い光の成す錯覚だった。

 タイミングが悪かった。運が悪かった。
 そう言ってしまえばそれまでだが、大河にはどうしても犬飼が許せなかった。間接的に、この暗く沈んだ泥のような心境の根本には彼の存在がある。彼を理由にしなければ気が済まなかった。

「いっそ死にてえ気分だよ。お前にいかされたのを見られただけで、あんな――」

 馬鹿馬鹿しい。実に下らない。犬飼が無理やりに、勝手にした行為で、大河にとって大事になるなんて。原因が原因なだけに、いっそ白けてしまいたい気分だ。宇佐美の脅威から自分の身を守りたくて必死になっている自分も下らない。
 何もかも最低だ。

「何がしたいんだよ、お前」

 同じことを自分自身にも訊いた。一体、どうしたいのだろう。大河自身は、どうしたいのか。犬飼にどうして欲しいのか。
 それが分からないからここまで悩んでいる。

 犬飼は何も喋らない。いつものことなのに酷く苛立つ。彼はただ、静かな面持ちで、そこに佇んでいるだけだった。大河の言葉が届いているのかさえ、不安になる。

 彼は何を見ているのだろう。大河のことを何だと、どう思っているのだろう。今、目の前にいるのに。

(何が守るだよ、アホみてえ――)
 
 酷く、打ちのめされる。
 正確に言えば、犬飼は直接これから大河を守るなんて言葉は使っていなかった筈だが、それでも大河を守りたいと思って死んで、守りたいと思って結果助けてくれたのだと大河は受け取っていた。守ろうと思った、そう言った筈だ。けれどそれは過去形だ。今は違う?
 大河の勘違いだったのだろうか。

 大河を追い込む一因を作ったのは犬飼だ。そして大事な時にはいてくれない。不都合から目を背けて逃げたのだ。……いや。
 もし仮に今日、犬飼がいても、状況は変わっただろうか。答えは否だ。
 幽霊だから。大河以外には見えないから。いてもいなくても……。

「いらねえよ、お前なんか。とっとと消えちまえ」

 奥歯が砕けそうなくらい噛み締めて言った。それでも犬飼は変わらなかったので、余計に悔しくなった。突き放して、拒絶したのに、どうして犬飼は顔色一つ変えないのだろう。まるで歯牙にも掛けられていないようで。

「……やっぱりお前、最低だよ」

 自分も、最低だ。
 掴まれた腕を乱暴に解いても追いかけてくる指はなかった。辺りは本物の暗闇に沈み、表情も分からなくなった。そこにいるのかさえ判断できなくなった。

「……最低、最悪だな」

 一時はすごく救われたし、安堵もしたけれど。今は違う。

 試しに腕を突きだしてみたが、何の感触も得られず遣る瀬無さだけが募った。
 どうして今に限って強引に出ない。前は押し倒したり抱き締めたりキスしたり、したくせに。
 それを思い起こしてしまう自分が愚かしく、大河は一人白けた気持ちで歩き始めた。

46/96 過程

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