密室アクアリウム
(5)
大河は胸の内に真っ黒な靄が生まれるような曖昧な気持ち悪さを抱いた。
(何が、悪いだと……)
犬飼は何に対して謝ったのだ。
きっと大河に無理矢理触れたことに違いなかったが、あまりにも悪びれた風はないので何に対してなのか一瞬、分からなくなってしまう。
何なんだ、あの男は。意味が、分からない。どうしてこんなことを。
頭の中に疑問や憤りばかりが湧いて混乱する。とにかく犬飼を罵倒した。
男として屈辱だった。犬飼の舌で身体が反応してしまったこと、愛撫を阻めずに達してしまったこと。犬飼の手によって、手の中で。しばらく相手の顔を直視できる気がしなかった。
「……クソ」
とりあえず下肢の衣服を整えて、立ち上がる。そして、心臓が止まるかと思った。
ピアノの影になって見えなかったが――入口付近に見知った生徒が佇んでいた。
宇佐美だった。
「……、…」
喉に何かがつっかえて言葉を発することを妨げている。
一瞬の間鼓動を忘れた心臓はすぐに活動を再開し、徐々に速度を上げて早鐘を打つようになった。米神を原因不明の冷や汗が伝うのを感じ、大河は呼吸を取り戻した。
「こんなとこで何してんの」
いつもと同じ軽快な調子。
けれど違う。何か違和感がある。
――見たのか。
近づいてくる宇佐美から目が離せない。
「……いつからそこにいた?」
「いつって、たったさっき」
「見て、たのか」
「何を?」
他意の含まれない短い問いかけに大河は安堵の息を吐いた。
そうだ。宇佐美が、黙って覗き見して後になって揶揄をするような男な訳がない。もしそうだとしたらとんでもない悪趣味な野郎だ。
それより、どうして大河に話し掛けたのだろう。どうしてここに?
今度は大河が疑問を投げ掛けようとしたが、先を越された。
「オナってるところ?」
「……!」
顔面に血が集まり、かっと熱くなるのを感じた。
やはり、見ていたのだ。開いた音楽室の扉から。ピアノの死角になった場所から。
一体、いつから。
動悸が激しい。苦しい。何も言えずに茫然と立ち尽くしていると、宇佐美は大河の顔の前に何かを掲げた。薄い青色をした、携帯電話。
「だったら俺、超面白いもの見れちゃったな」
大河の目は宇佐美の携帯電話に釘づけになった。
……撮った、のだろうか。この便利な電子機器で、大河の醜態を?
あれは至極不本意で、不可抗力のものだったが、宇佐美がそれを知る由もない。だって彼には犬飼の姿が見えないのだ。
大河が一人で、自慰行為に及んでいる現場を目撃し、そして携帯電話でそれを撮影した――のか。この宇佐美が?
「てめえ……誰かに言ったらぶっ殺すぞ」
運が悪すぎる。
偶然が重なった結果に悪態を吐く。
野獣のごとく鋭い眼光で睨みつけ、大河は相手の胸倉を掴んだ。携帯電話が床に落ちて硬い音を立て、持ち主の目がそれを追った。
大河の言葉は宇佐美が見た行為を認めたも同然だったが、証拠がある限り覆すことが出来ないと判断したからだ。
「やだ、俺……マジで殺されそ……」
大河の気迫に怯んだ宇佐美は両手を軽く挙げて降参のポーズを取ったが、それはまだふざけているように見えて、恥よりも苛立ちが勝った。
窮屈そうにする相手の衿から手を離したが、大河にとってかなり深刻な状況だというのに宇佐美は口元に薄い笑みを浮かべていた。それは今までの彼に対するイメージを傾かせるものだった。大河の、心中での狼狽を悟って楽しんでいる。
「撮ったやつ、消せよ。今すぐ」
「あー……消してもいいけど、家のパソコンに送っちゃったんだけど」
「……はあ?」
……有り得ない。
宇佐美はこんな悪趣味な人間だったのか。気のいいクラスメイトを装って、本当はこんな卑劣な行為をする奴だったのか?
「じゃあそっちも帰ってから消せ。絶対誰にも言うんじゃねえぞ……」
非常に屈辱的だった。どうして自分が、あの恥ずかしい場面を見られて、ろくに話もしないクラスメイトに、他言はするなと頼まなければならないのか。惨めすぎる。絶対にあてはならないことだ、こんなの。
「勿論誰にも言わねーって。心配すんなって!」
「本当かよ」
「マジマジ。そんなことしねーからさ……代わりにちょっと付き合ってくんね」
にやにやしだす宇佐美。明らかに何かを企んでいる様子に大河は再び危惧した。
きっと何か厄介なことになる。言わない代わりに何かをしろと言うならば、それは金を出せとか、気に入らない後輩を代わりに殴ってこいだとか、そういう物騒な類のものしか浮かんでこない大河だが、この状況を楽しんでいるらしい宇佐美が次に何を言い出すか、本人が言い出すまで本当にそれを予想もしていなかった。
大河の手首を掴んで宇佐美は言った。
「舐めて」
「……は?」
何を?
「だからさ……」
捉えられた手が導かれた場所は宇佐美自身の、下肢。さっき、大河が犬飼に触れられていた箇所。
「これ、舐めて」
かっと頭に血が上って、宇佐美の身体を思い切り突き飛ばした。黒板に衝突して背中強かに打ったようだが、大河の怒りは収まらなかった。
「馬鹿にしてんじゃねえ……!」
最低だ。
からかうのもいい加減にしろと苦々しく吐き捨て、大河は音楽室から出ようとしたが、
「先生に言ってもいい?」
肩越しに背後を見ると、ちょうど宇佐美が自身の携帯電話を拾い上げたところだった。
「別に先生に言ってもしょうがないかなー。……あ、俺、クラス全員のメアド持ってんだよね。画像添付して一斉送信も出来るんだけど」
「……」
「でも、そんなことしたら俺の株が下がるから絶対にしねーよ? 安心してよ、仲宗根」
のらりくらりとした宇佐美の戯言に翻弄されそうになる。何が真実で何が嘘なのか判断できない。
やや逡巡して、大河は結局その場を後にした。いつまでも宇佐美と同じ空気を吸っていたくなかった。
あんな男だとは思わなかった。他人の弱みを掴んで、脅迫して。冗談だとしても最悪だ。
しかし大河がこんな目に遭ったのは、――犬飼がいたからだ。
43/96 過程