密室アクアリウム

(4)

 硬い粉受けに強かに後頭部を打ち、患部を抑えながらその場に力を失くしたようにしゃがみ込んだ。以前、喧嘩の最中にパイプで殴られたことがあったが、それ以上の痛みだった。

「いきなり何すん……っ」

 目の前が暗く翳った。滲む涙を押し込めて見上げると、犬飼が膝立ちの状態で大河の後の壁に腕を突いて見下ろしていた。
 すっと首筋に触れられる。

「いっ…」

 切り傷にピリリとした鋭い痛みが走る。そして犬飼は患部に顔を寄せ、生温かい舌を押し付けた。べろん、と舐める感触がリアルで鳥肌が立つ。

「何してんだよ!」

 引き離そうと腕を突っ張るが――犬飼の身体を通り抜ける。
 自分の都合のいいように透ける犬飼に腹が立つ。犬飼は大河に触れるのに、大河は触れないというのは至極不公平で、手の中で転がされているようで、気に入らない。

「っつ……」

 舌先が傷口に潜り込み、血が溢れ出るような感覚。痛かった。一体犬飼は何がしたいのか分からなかった。
 やがて犬飼が顔を上げると、いつの間にか首筋の痛みが消えていることに気づいた。

「……?」

 恐る恐る触れてみると、犬飼の唾液が付着しただけで、血は出ていない。というか、傷そのものが消えていた。

「おい、どういうことだ、これ」

 犬飼が傷を治したということか。困惑しながらも尋ねるとあろうことか今度は脚の方へ矛先が向かい、大河は本格的に焦り始めた。手の平に変な汗がじっとりと滲んでゆくのが分かる。

「馬鹿、やめろ」

 既に床に尻をついた状態で、せめてもの抵抗で両足を蹴るように動かすが、それさえも犬飼の手に封じ込められてしまえば本当に為す術がなくなってしまう。どうしてか立ち上がれもしない。
 脚を左右に割り開かれ胡坐のような体勢にされると、ボトムがぐっしょりと濡れるほど案外に深く切れて今も血が溢れ続けている太腿の傷に舌が触れた。

「ってぇ……ッ」

 犬飼がそこを舐める度に唾液が傷口に染みて新たな波紋を作る。あまりの痛みのために拳を握り、瞼を固く閉じる。それに、見たくないからでもあった。

 誰が、何が傷をつけたのか。犬飼が一緒にいるのに、どうして危険な出来事が起こったのか。
 音楽室に行けと言ったのは伊織だ。もしかしたら何かの罠かもしれない。しかし、犬飼が隣にいる時に現れた伊織は危険な存在なのか?

「ぅ……っ、…」

 ぴちゃぴちゃと下肢で傷口を舐める音が耳に入ると、その水音は一種の卑猥なものとしても聞こえてくる。聴覚が犯されそうだった。血で濡れた傷口は火傷のように熱い。
 熱いのは傷口だけではなかった。大河は自分の身体の変化に気づいていた。

「も、いいから、やめろっ」

 ずず、と強く吸われるとそこから奇妙なものが広がり、下腹部に熱が堆積する。靄のように判然としない熱の正体が快感であることを知り、形容しがたい不安を感じた。

 やがて犬飼が顔を上げると、首の傷と同様に何もなかった。

「な……」

 幽霊には治癒能力があるのか。
 疑問を持ちつつも、すぐに大河は犬飼の手に逆らって脚を閉じようとした。今まで傷を舐めていた男に身体の変化を悟られる訳にはいかなかった。

「もういいだろ。わざわざ、どーもありがとよ。だから早くどけよ」

 手の平に掻いた汗を膝に擦りつけ、早口に突き放す。どうしてこんなことで熱がボトムを押し上げているのか。音に誘引されたか、視覚が引き起こす錯覚か。

「仲宗根」
「んだよ……どけって」

 額に汗が滲む。熱いからなのか単なる冷や汗なのかは判断つかない。
 続く緊張の中で息を詰めていると、犬飼が無言でそこに触れてきた。

「やめ……、ッ」

 ぎゅっと握り込まれると予期せぬ快感が身を襲う。身体の状態を知られたことに羞恥が込み上げる。こんなことで反応させているなんてと、嘲笑われはしないかと不安だった。

「犬飼!」

 制止の意味を込めて名前を呼ぶが上擦った自分の声は今の状態を如実に表しているようで、更なる狼狽を誘った。犬飼が視線を寄越す。

 けれどその瞳は普段と同じように何も浮かべず、涼しい。

「あっ……!」

 ボトムを乗り越えて下着の中に滑り込んだ手は、中でやや硬く反応している性器を柔く包み込むとそれを外気に引き出した。そのまま絶妙な力加減で上下に扱きだす。

「……っ、てめ、っ……やめろっ」

 快感で震える手を犬飼の自在に動く手の上に重ね、この恐ろしい行為を止めさせようとするが、勿論触れた感覚はなく、そのまま自分の昂ぶりの熱が伝わっただけに終わる。阻もうとした必死の行為は、傍から見れば自慰としか映らないだろう。

 この男は、何がしたいんだ? どうして自分にこんなことをするんだ?
 瞳は相変わらずの無表情で、この行為をしているというのに熱の欠片さえ見せない。事務的な行為だということが分かる。底冷えしたような目がただ恐ろしい。

「ぁ、っ……ん」

 犬飼の心はいつも分からない。突如として大河に触れる。それは幼い子の尻拭いをするような、或いはあやすような。
 それがとても気に入らなかった。何を思っているのかを知らないからこそ、尚更に不安を煽る。

 相手の手の中に握られた性器は痛いくらいに張りつめて、先端から透明な液を漏らし手淫の手助けとなっていた。直接的な愛撫によって身体の力が嫌でも抜けてゆく。一方的に、乱暴に与えられる快感によって訪れる変化には抵抗しか感じない。
 嫌だ。そもそも、同じ男に性器を愛撫されているのが酷く嫌なのだ。犬飼は気持ち悪いとか思わないのか。

「あ、――ッ!」

 ぬるぬると液体が滲む先端に爪を立てられ背骨に痺れが走ったかと思うと、大河は犬飼の手の中で射精をしていた。内股がびくびくと震える。
 解放感と共に訪れたのは重い倦怠感と虚無感、そして遣る瀬無さと怒り、羞恥。

「てめえ……!!」

 荒い息を吐きながら犬飼を射殺さんばかりに睨みつけると、相手は僅かに視線を外した。それがより苛立ちと虚しさを誘った。

 そして一言「悪い」と。
 それだけを言って犬飼は消えた。

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