密室アクアリウム

(3)

 HR終了の鐘が鳴り、大河は教室を出た。ボトムの尻ポケットには携帯電話と、伊織から預かった手紙。
 教室棟から出て、特別教室の並ぶ棟へ足を向ける。大河は滅多にこちら側には来ない。
 横を過ぎる書道教室、数学教室、美術室、そして音楽室。

「お前は来たことあるか」
「いや……ない」

 後ろに続いて音楽室に入る犬飼は「一年の時の芸術選択は美術だった」と話す。大河も美術選択だったが、授業に出た覚えが全くない。それでも何故か美術は単位を取れていたから不思議だ。人為的な何かを感じる。

 初めて入った音楽室は案外広かった。普通教室のように配置された机と椅子はまだ新しいようで傷はない。部屋の奥にあるドアの上には『音楽準備室』と書かれている。深緑の黒板の前には大きなグランドピアノが鎮座していた。

(置いて来いっつっても……どこでもいいのかよ)

 置いて、どうするつもりなのだろう。
 誰かが持って行くのだろうか。幽霊からの手紙を?

 ポロン、と軽快な音がして、ピアノの前に犬飼が座っていた。いつの間にか鍵盤を覆う蓋が上げられていた。

「弾けんのかよ」
 
 揶揄するように近寄ると犬飼は硬い動作で首を横に振る。

「小学校の頃に習ってた……けれど忘れた」

 言いながらも犬飼は、たどたどしい指使いで鍵盤を叩き始めた。ぎこちなく、ゆっくりな調子。大河は聴いたことがなかったが、練習曲か何かだろう。

「どこが忘れてんだよ。弾けてんじゃねえか」

 嫌味な奴だと思ってピアノから離れる。指紋一つない艶やかなボディは、音楽教師か誰かが磨いているのだろう。真っ赤なシルクを掛けられて、気取った女優のように威張っていた。

 手紙を置き去りにして早く帰っても良かったが、初めて踏み入れた教室は物珍しく、らしくなく大河は教室中を見回していた。色褪せた記憶の奥底にある中学の音楽室よりも、何かすごい。
 教室の後の壁に貼りつけられた音楽家たちの肖像画のポスター。リアルな油絵は少し不気味だ。

 ……そういえば。
 ふと、大河もピアノを習ったことがあるような気がした。本当に小さな頃だ。まだ小学校に上がる前だろう。
 よく思い出してみると、小学校に上がる前に個人の小さなピアノ教室に行かせられていた。決して大河の意思ではなかった筈で、一か月弱で止めてしまったかもしれない。両親が自分を可愛がっていた頃だ。

「……?」
 
 いつの間にか楽器の音は鳴り止んでいて、それならば手紙を置いて帰ろうかと思った時。

 バーン、と。重苦しい衝撃的な音が教室内に走った。

 ピアノの全ての鍵盤を壊すがごとく叩き割ったその音に驚いて犬飼を見るが――さっきまでの位置にはいなく、窓際に立って大河と同じように目を見開いていた。

 犬飼がこちらを見る。「俺じゃない」と唇だけで伝えたのを見た。それは分かる。
 二人が固まっている間に、奇怪なピアノは新たな音を作り出す。誰かは知らないが有名作家が作曲した曲。酷く荒々しく、悲痛で、重い。演奏者の心情を表しているような……いや、誰が弾いているというのだ。

 恐る恐る近寄ると、誰も座っていないのに鍵盤だけが浮き沈みしていた。
 犬飼と顔を見合わせる。静かに唾を呑む。

「早く帰――」


 首筋と太腿に細く鋭い痛みが走ったのは、名も知らない曲が鳴り止むのと同時だった。

「ッ……」

 身体が硬直して咄嗟には反応できず、大河より先に犬飼が動く。彼の腕が伸びて首筋に触れた。喉仏の下を、真横に指でなぞる。犬飼の指先は血で滲んでいた。

「これ……」
「何で」

 自分でも確かめてみる。やはり指の腹には血液が付着していて、ぬるぬるする。
 切り傷があった。

「何だよ、これ……」

 見ると太腿もナイフで傷つけられたように、五センチ程切れたボトムが捲れて肌が露わになっていた。やはり出血している。
 頭の中で警報が鳴り響く。ここにいてはならない。危険だと。

「犬飼、行くぞ……、っ」

 踏み出した足は、突然引かれた腕のせいで大きく傾いた。

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