密室アクアリウム

(2)

 学年主任や教頭までも出てきて厳重注意されるかと思っていたが、たったあれだけの話で済んで、やや拍子抜けだった。多分、担任が柏木だからだろう。彼じゃなかったら大河を出席日数不足で容赦なく留年させると思う。

「外は雪が降ってる」

 屋上へ出る階段を上ろうとしたところで、犬飼の声がした。
 今屋上へ行って昼食を取るのは限りなく愚かな行為だ。好き好んで極寒を体感しにゆく趣味は大河にはない。
 結局、屋上へ抜ける手前の扉の前スペースで食べることにした。
 
 コンビニで買ったパンの袋を開けて噛り付く。中にミルクを挟んだ小振りのフランスパンだが、甘さ控えめで気分が悪くなることはない。
 暫く無言でもさもさと咀嚼していたが、犬飼がじっと見つめているのがそろそろ耐えがたく、固い生地を嚥下すると横目で睨みつけた。

「じろじろ見てんじゃねえよ。飯がまずくなる」
「……悪い」

 犬飼は短く詫びると大河の隣に座った。
 風呂場の事件後、犬飼はよく大河の傍にいる。
 それから大河の周辺には変な現象は起こらなくなっていた。どうしてなのかは分からないが、あの時は犬飼が来てウサギは消えたと言っていた。ならば、犬飼がいるから安全なのではないか。

(皮肉だな)

『ただ、守ろうと思った』
 寡黙でまともに会話も成り立たないような犬飼が言った言葉。その通り、犬飼はそこに存在するだけで大河を守っている。
 今まで生きてきて、誰かに守られたことはない。すべて自分一人の力だけで十分だった。周囲を撥ねつけるのにも、喧嘩をするのにも。群れたことはない。
 だから余計に犬飼の存在は大河を戸惑わせた。

「……」

 犬飼はまた、黙って大河の食事風景を眺めている。面白くも何ともないだろうに、まるで雛を見守る親鳥のように。

「だから、見てんじゃねえよ!」

 犬飼の代わりに、パンに乱暴に噛り付く。硬いパンは口内の水分をことごとく奪ってゆく。
 そこで大河はふと思った。犬飼は食べたいのではないか、と。

(……そうなのか?)

 そう思いついてから、まさかと思う。
 幽霊だ。幽霊は食事をするのか? 栄養分を摂取しなければならないのだろうか。どうなんだろう。

「犬飼」

「大河君、久しぶり」

 背後から降りかかった高い声に、大河は肩を跳ねさせて振り返った。そして目を瞠った。
 ブレザーの袖からはみ出たグレーのセーターと、黒のロングヘア。漂う生花の香り。見覚えのある彼女には首があった。

「……!」
「怖がらないで。ごめんね、この間は驚かせて……少しからかうだけのつもり、だったんだけど」

 青白い顔に苦笑を浮かべた少女は、犬飼とは反対側の大河の隣に座った。唐突な、前置きのない接近。今度は何をするつもりかと身構えるが、彼女は「別に取って食べたりしないってば」と言った。
 それでも疑ってしまう。この間は恐ろしいものを見せられたのだ。圧で潰れた人間の身体や、腹からはみ出る臓腑を。
 大河に悪意があるのではないのか?
 胡乱な目を向けると、少女は大河の顔を覗き込むように前屈みになった。

「私は伊織。大河君のことは知ってるよ。有名だから」
「お前、死んでるんだよな」
「そうだよ。飛び降りたの。ところで、あなたは誰?」

 伊織が犬飼を見る。
 大河だけにしか見えないと思っていたが、幽霊同士だからなのか、コミュニケーションが取れるらしい。
 突然振られた犬飼は数秒の無言の後、重たそうに口を開いた。

「犬飼孝弘」
「あ、名前は知ってるよ。クラスの子が、格好いいって前に騒いでたから。……死んだの?」
「ああ。交通事故で」
「へえ、知らなかった」

 隣に幽霊が二人座っているというのに黙って話を聞いていられる自分が、大河は奇妙に思えてきた。普通だったら考えられない状況だ。
 特に、伊織だ。前は大河に害を与えようとしていた(と思う)のに、今は悪びれた風もなく、友人のように隣に座っている。あまりにも自然すぎて慄くことが出来ない。

「あのね。大河君にお願いがあるの」
「飛ぶところ、見ろってか?」
「それじゃなくて。あれはただの悪戯だよ」
「悪戯にしちゃ性質が悪すぎる」

 本当に腰を抜かすかと思ったのだ、あの時は。まさか自殺を目撃するとは思ってもみなかったから。

「これを預けたいの」

 伊織はそう言って、ブレザーのポケットから封筒を取り出してみせた。白地に、淡いピンクの桜が散らばっている。一見するとラブレターだが、幽霊がラブレターを誰に渡すというのだ。

「音楽室に持って行って欲しい」
「自分で行けばいいだろ」
「私、この階から下には行けないんだよ」

 申し訳なさそうな顔をする伊織は、生身の人間のように自然だ。大河に無理矢理押し付けるような形で手紙を渡すと、触れた指先から冷たい温度が伝わる。

「私が見える、大河君にしか頼めない」

 大河の目をじっと見つめて訴える伊織は必死だった。大河がイエスと答えなければ死んでしまう、というくらいに。実際すでに死んでいるけれど。

「……持って行くだけでいいのかよ」
「うん。持って行って、置いてくるだけでいい」
「誰かに渡すとかじゃないのか」

 犬飼が低いトーンで口を挟む。伊織は力なく首を横に振った。
 そこまで面倒な仕事ではない。手紙を置いてくるだけだ。

「分かったよ」

 仕方なく了承すると、伊織は小さな笑みを浮かべて身体を揺らした。瞬間、生花の香りが広がる。花粉が鼻から入り込むようなそれは、少しむず痒い。

「ありがとう。良かった、また逃げられるんじゃないかと心配してたの」
「この間みたいなのは、止めろ」
「もうしないよ。……それじゃあ、終わったら、私に教えてくれないかな。大抵はここにいるから」

 立て続けの頼みにやや辟易したが渋々頷くと、伊織は消えていなくなった。

「……」

 普通に対応してしまった。
 相手に遠慮というものが全くないからか、それに流されて引き受けてしまった。相手が普通の人間だったら「面倒くせえ。何で俺が」と断るところを、何故か。

「……」
「……何だよ?」

 視線を感じて犬飼を見るが、珍しく向こうから逸らされる。些細なことだが、心に引っ掛かった。
 少なくとも伊織は、こいつよりは話しやすい。

 昼休み終了を告げる鐘が鳴る。残りのパンを口に押し込んで、大河は腰を上げた。

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