密室アクアリウム

(1)

 通常はどうであれ盆と正月だけは必ず家族で一緒に過ごす、というのが一般家庭間で大抵がそうであるように、仲宗根家も例外ではない。
 先日届いたメールの差出人は大河自身の母親だった。他人からのメール受信がほとんどない大河は『From:母』で始まる文面を見て、そういえばそういう時期かと一人納得した。

『今年は何日に帰ってくるの?』
 控えめながらも冷たくはないそのメッセージがなければ、もしかすると帰宅を忘れていたかもしれない。

 電車を乗り継ぎ、駅から歩いて実家へ。最後に返ったのは今年の盆だが、久しぶりに見た我が家は他人の家のように感じた。そんな大河の心境も慮ることなく、二階建ての住宅は厳しい吹雪の中、のっそりと立っている。二階の屋根から雪の塊が落下して重たい音を立てた。
 ドアの脇のボタンを押すと、中からスリッパの音が徐々に近づいてくる。間もなくしてドアが外側に開かれ、隙間から顔が出た。

「おかえり」
「……ただいま」

 夕食の準備をしているのかエプロンをつけた母親は、少ない言葉と笑顔で大河を迎えると急かすように「寒いでしょ、早く入りなさい」と言って、三和土から土足したスリッパを離した。変わらない、と思った。
 
 大河は玄関のドアを閉めようとしたが、気付いて躊躇った。冷たい冬の風が家の中に雪を伴って吹き込む。

「どうしたの」

 不思議そうに見る母親に「何でもねえ」と素っ気なく答えて、大河は肩にかけた荷物を持ち直した。ドアを閉めると白の風景が遮断されて見えなくなった。
 来るのだろうか、と思う。

 リビングでは父親と妹が、それぞれ好きな体勢で寛いでいた。訪問者に気づいた父親は眼鏡越しに大河の姿を認めると視線を逸らし、手にした雑誌に目を落としながら「おかえり」と硬い声音で母と同じ台詞を口にした。中学一年生の妹は黙って漫画を読みながらフローリングの上に寝転がっている。大河には目もくれない。
 取りあえず、二階の部屋に荷物を置きに行くことにした。

 盆から何も変わっていなかった。半年も空ければ被っている筈の埃も見当たらない。母が定期的に掃除をしているからだろう。中学時代に開けた壁の穴も、やはりそのままだった。
 ベッドに荷物を放り投げてその隣に腰掛けると、部屋の入口に誰かが佇んでいるのが見えた。

「やっぱり、ついてきたんだな」
「……ああ」

 犬飼が来ることは予想のうちで、特に意外な出来事ではなかった。
 風呂場での一件の後、彼はそれ以前より、気づけば大河の近くにいるということが多くなった。流石に人の多いところで現れるのは控えているようだが、大河が一人でいる状況になるようなことがあれば大抵はやってきて、二人になる。
 鬱陶しいと思うところはあるが、犬飼がそうする理由を心得ているので、しかもそれは大河にとって悪影響を及ぼすことはないし寧ろ逆だということも知っているので、一人になる時間が少なくなったことに対して大河が怒りを爆発させることはなかった。

「水入らずのところを、悪いと思ってる」

 本当にそう思っているのか分からない無表情で犬飼は詫びた。見当違いの言葉に大河は苦笑することも出来なかった。

「別に。水入らずって訳でもねえし」

 それどころか逆だ。母はどうか知らないが、父と妹が大河の帰宅を歓迎しているとは思えなかった。それは今年の盆も、去年の正月も、肌を刺す緩やかな空気で感じたものだ。
 大河自身も、家族の時間を大切にしたい訳じゃなかった。中学時代はほとんど家によりつかず外で喧嘩ばかりしていたし、両親が大嫌いだった。思えば悲惨な反抗期だったろう。
 せめて高校だけは入ろうと思って結果入ることができたが、授業は真面目に受けていないし成績は最底辺だ。
 サボってばかりの学校。それに加え恒例行事も無視するのは、何だか気が引けた。家に帰って、というか帰るという行為によって罪滅ぼしのようなものをしようと無意識に考えていたのだろう。

 過去に潰した家族との時間を取り戻すにしても圧倒的に足りない。無論、そのつもりはなかったが、両親が大河の帰省についてどう思っているかは知らない。
 とにかく、大河が実家に帰って母親の料理を食べてゆっくり年を越すという一連の行為は、自分のためだった。
 犬飼はそれを知らない。単に普通に里帰りして久しぶりに会った家族とゆっくり過ごすのだと思っているのだろう。

「でも、下には降りてくんなよ。邪魔だから」

 他の人、家族がいる時に出て来られたら困る。気が散る。学校にいる時よりはマシかもしれないが、無意識に犬飼の存在を気に掛けていると変に思われるだろう。何もないところを睨んでいる息子を見ると。

「ああ、邪魔はしない」

 わざわざ注意するくらいには犬飼がいつも傍にいることを享受している自分が、少しおかしかった。


 間もなくして母親が階下から夕食の準備が出来たと叫んだので、犬飼を一人残して一階に降りた。
 ダイニングテーブルには既に三人が席に着いていた。四人掛けの長方形で、父と母が隣り合い、母の正面に妹が座っている。大河は妹の隣の空席に腰掛けた。

 十二月三十一日の今日は、普段の家族の食事を知らない大河でも、特別なメニューだということが分かった。品数が多い。和洋色とりどりの食事が皿に盛りつけられている。

 けれど違和感を感じた。どこか、明確には分からないが何となく異様だと。

「……お母さん、ソース」
「はいはい、どうぞ」

 母と妹の短いやり取りが終わると、食卓はテレビの音だけに支配される。毎年大晦日に放送される恒例のバラエティ番組の音声だけが大河の耳に飛び込んできた。それと食器と食器がぶつかる、軽くて小さな、硬質な音。金属の冷たい音が細やかに鳴らされる。

 食事中、会話がないのは別に異様な光景ではないが――空気が。空気が硬い。
 父はテレビに目を向けることなく食事に集中している。妹はたまにテレビに目線をやりながら少しも笑わずに箸を動かしている。各々が自分一人の空間を作り、壁で外界から隔てる。唯一母だけが笑い、一人ぎこちないコメントを漏らしていた。それに対する反応は、ない。

 別に、どこの家庭でも見られる風景なのだと思う。けれど。
 これが普通なのだろうか。大河がいない時もこうなのだろうか。やはり静かな食卓なのだろうか。それとも。
 そういう風に考えてしまう。

「大河、学校はどうなの。勉強はちゃんとしてるの?」

 母が気を利かせるようにして大河に突然、話を振った。微笑むと口元や目元の皺が深くなる。大河はその、少し強張った表情に疲労や重圧が浮かんでいるのを悟った。

「……まあ、それなりに」
「考査はどうだったの?」
「まあまあ」

 嘘だった。冬休み前の定期考査なんて受けていない。
 自然な調子で話し掛ける母親に素っ気ないながらも返答する大河は、ひそかに父親の表情を盗み見た。一瞬だけ目線がかち合ったが、すぐに逸らされた。
 それから母は学校のことについて大河にいくつか尋ねた。どれも当り障りのない内容だったが、大河が無言になるとすぐに話題を変えた。唐揚げを頬張る母は無理に笑っているように見えた。声はテレビの音に溶け込んでしまいそうなくらい、小さくなっていった。

「ねえ、大河」

 突然、母が箸を置いて改まったように名前を呼んだ。

「その、目はどうしたの?」
「……」

 何と答えたらいいものか、逡巡する。片目が不自然に充血して瞼が青く腫れ上がっていることを、どう説明するかまったく考えていなかったのだ。
 日常で傷を作ることが当然になっている大河にとって、喧嘩の時に殴られて目元が大きく腫れたことは大事ではなかった。
 
 短い期間に色々ありすぎて、うっかりしていたようだ。

「雪道で滑って転んでぶつけた」

 咄嗟のことではあったが、あまりにも露骨な嘘を吐いたことを、言ってから僅かに後悔した。滑って転んで、片目だけこんなに青く腫れる訳がない。転倒しただけで局所的な怪我が出来る訳がない。
 しかし母は暫く無言で大河を凝視したかと思うと、ぱっと不自然な微笑を浮かべて「そう。気をつけてね」と口にした。
 大河が怪我の要因をそうしたいのなら、私はそれで構わない。あまり難しい話題は出したくないという母親の心境が伝わってきた。

 感じた違和感は間違いではなかった。安全地帯で交わされる言葉で確信した。
 余所者を見るような視線。他人のようなよそよそしい態度。表面上は家族でも、全員、大河を異物と少なからず感じている。
 だがそれに対してとやかく何か思うのは今更だった。違和感は違和感だったが、特に驚くべき違和感ではなかった。やっぱり、というような諦念を含んだ気持ちを抱いただけだった。

「そういえば」

 父が初めて口を開いた。視線をやると再び目が合ったが、今度は逸らされなかった。硝子の向こうから冷たい視線が突き刺さる。相変わらず、という感じだった。

「そういえば、冬休み前、担任の先生から電話があったぞ。欠席が多すぎるって」
「お父さん」

 厳しい口調で言った父に、母が控えめな声音で諌めるが無視された。父は手元のグラスを掴み、ビールを飲み下す。喉仏の上下が終わると、再び大河に鋭い視線を向けた。

「お前、進級はできるのか?」
「お父さん、今はその話止めよう」

 母がまたもや宥めようとするが、父はまともに取り合わなかった。

「せっかく大河が帰ってきたんだから。お正月だし、ね?」
「じゃあ、いつ話をするんだ? 先生も言っていただろう。ご家族でよく話し合って下さいって。年に二回しか帰ってこない息子に、他にいつ話をする時間がある?」
「それは……」

 母が言葉をつまらせて、助けを求めるように大河と妹の間に視線を彷徨わせた。
 それから両親は大河のことについて話し合い――口論を続けた。大河はその様子を、まるで他人事のように冷めた気持ちで聞いていた。少し味付けの濃い煮物を口に運ぶ。

 両親の気持ちも、分からないではない。息子が留年するなんて恥でしかないだろう。父がマトモな道を歩んできた公務員なだけに。ろくに学校にも行かない大河に怒りを通り越して呆れているのは明白だった。

「母さんは甘やかし過ぎなんだ。昔から、こいつが小さい頃から、帰りが遅くなったり喧嘩をしてきたりしても何も言わないじゃないか。だから、こんなろくでもないやつになったんだ。高校生にもなって喧嘩して、他人を殴ってる。協調性がないんだ。……それに学校にまともに通わない、何のために高校に行かせたんだ。第一、誰が金を出してやってると思ってるんだ――」

 
 食卓は、何とも言えない微妙な空気が支配していた。再び、テレビの音だけが流れ込む。母は身動き一つ取るのも憚られるようで、箸を手にしたまま硬直していた。

 視界の端に、すうっと何かが映り込んだ。窓際に犬飼が立っているのが見えた。

「私、お風呂入ってくる」

 食事を終えた妹が静かに席を引き、立ち上がった。口論する両親、まるで他人事のように無言を貫き通す兄に何を思ったのかは知らない。妹は食器を片づけると、堅苦しい空間から出て行ってしまった。

「大河、あとでちゃんと話しようね」
「……」
「柏木先生からね、ここ最近、大河の様子が変だって聞いてるの。冬休み前の話なんだけれど。お父さんとお母さん、心配なのよ」

 食事は静かに再開された。

37/96 皮下心情の本音

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