密室アクアリウム

(13)

 靄のかかった視界が徐々に現実を取り戻しつつある時、鼓膜を直接震わせるような低い声で誰かが言った。

「沈められただけか」

 接触する部分が声で細かに震える。正体不明の誰かの肩口に埋めていた顔を上げて相手を見ると、それは最近になって見慣れた男だった。動きのない静かな瞳で大河を見下ろしている。

「犬飼……!」

 口をついて言葉は出てこない。至近距離の相手の瞳の中に自分の姿を認めた途端に羞恥が込み上げ、顔が熱くなるのを感じる。喉の奥がひくりと震えたのも。
 空気を飲み込んで、濡れた口を開いた。

「さっきの、あいつは……」
「俺が来たら、消えた」
「……何で!」

 湯船越しに抱き締める犬飼の身体を突き離そうとして、それは当然のように不可能だということを思い知る。相手の身体を貫通するだけで手応えはなく、逆に手首を掴まれてしまう。

「お前は何で来たんだ! あいつは、誰なんだ!? どうして俺を殺そうとするんだよ!」

 唾を飛ばす勢いで叫ぶと、嗚咽で苦しくなった喉が再びきゅうと絞まる。すると収まった筈の涙が姿を現しそうで必死に堪えるが、鼻の奥がつんとする。目頭が熱い。
 犬飼は何も答えない。大河の訴えを受けて、何を思っているのかも窺い知れなかった。
 まるで虚ろな水底だ。それは暗くて冷たくて、反射もしない。

「何で、俺がこんな目に遭わなきゃならねえんだよ! 何で、他の誰にも見えてねえんだ、何で俺だけ、俺だけ見える!」
「……」
「最近ずっとだ……俺の周りに“何か”いる。“誰か”が見てる、お前も……! もう嫌なんだよ、怖――」

 音が消え、視界が暗くなった。瞼を閉じるという、咄嗟に取った反射的な行動だと後から知った。
 顎を掬い取られ、唇に何かが吸い付いている。それが何なのか、瞬時には理解できなかった。薄く目を開けると、全てを食い尽くしてしまいそうな暗闇がじっと大河を見据えていた。

「……な、…っ」

 犬飼の唇が、大河のそれをゆっくりと這う。上唇を食み、僅かに生れた隙間から生温い舌が潜り込んでくる。首を後ろに引こうと思った時には、既に項に手を添え固定されていた。

「ん、……っ、ぅ」

 キス、というよりは唇を食われているような感覚だった。腫れるほど嬲られ、口内は自在に蠢く舌が蹂躙する。尖った舌先が頬の内側を撫で、大河の舌の裏側を圧迫し、歯列をなぞる。
 どうして犬飼にキスをされているのか。それを考える暇もなく、肺の中の酸素を奪われ、脳がぼうっとして、何も考えられない。
 普段の犬飼とは真逆の激しさ。先程までの虚ろな感情はどこへ消えたのか、大河が拒んでも強引に求め、吐息を奪い尽くす。

「ぅ、……っ」

 舌先を強く吸われ、背中が仰け反る。すると余計に首筋にある手に力が籠ったような気がして、身体が強張る。体勢を保つのが辛い。水の中の脚が内側を蹴り、軽やかな水の音を立てた。

 苦しい。先程とは違った方法で窒息してしまいそうだ。掴まれているために動かせない手は、血が巡らずに冷たくなっている。

「ふ……、っ…ん」

 手首の圧迫が消えたかと思うと、首筋から鎖骨へと指先が躍る。冷えてしまった身体にその温もりは心地よく、大河は所在不明となってしまった手を空へ彷徨わせる。触れるか触れないかの微妙なタッチで動く犬飼の指先はそのまま胸元を撫で下ろし、脇腹を撫でる。身体がビクリと魚のように跳ね、水が犬飼の制服を濡らしたかもしれなかった。
 その手は再び上昇し、鎖骨を撫でたかと思うと、胸元の突起を掠めた。

「ッ……!」

 急に恐ろしくなり、大河は自由だった腕を振り回した。犬飼の拘束が弱まった隙に身体を押し退け、相手の頬を殴る。硬い感触が確かにあった。

「っ……」

 皮膚が裂けるような、痛そうな音がした。
 荒くなった呼吸を整えながら大河が驚いたのは、手の甲に付着した血――目の前の男のものではなく、手の傷が開いたから――と、犬飼の表情だった。

 目と唇の端に不自然な力が入り、顔全体が強張っているように見える。何か衝撃的な事件が起こったかのような悲嘆に暮れた表情とも受け取れたが、一瞬、動揺の浮かんだ真っ黒な瞳はすぐに静を取り戻す。

 初めて見た。犬飼が表した感情。
  
 一瞬の間を置いて、シャワーが流れる細やかな音が飛び込んでくる。いつから出っ放しになっていたのか、排水溝に吸い込まれなかった湯がタイルの上に溜まっていた。

「……」

 大河はいつの間にか、必死で握り締めていた拳を解いていた。湯船の中は何の変哲もない“湯”に戻っている。立ち込める湯気が視界に靄を作る。現実が帰ってきたと感じた。

「お前は、何のために俺の傍にいるんだ?」

 不思議と頭は冷静を取り戻していた。離れてしまった体温を肌で直接感じなくとも、声は震えなかった。
 犬飼は何かを言おうとして口を開いたが、母音が何かも分からないうちに閉じた。

「正直、気持ち悪ぃし、腹が立つ。……教えろよ。危ないからだとか、曖昧な理由じゃなくて」

 大河は自分の声を聞きながら、妙だと思い始めていた。声帯を震わせて発せられている声が、やけに遠くに聞こえる。数メートル先の硝子越しで喋っているような不明瞭な言葉。かろうじて聞き取れるが、徐々に頭が重たくなる。
 犬飼は大河を凝視したまま、無言を守っている。

「……また、何も言わねえんだな」

 自分の言葉に棘がないことも不思議だと思った。その印象を受けてすぐ、目の前が真っ暗になって身体が傾いた。

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