密室アクアリウム
(12)
暫くの間、頭から湯を被って立ち尽くす。足元から湯気が立ち上がり、天井や壁に水滴を作る。
血が固まった手の甲に湯が染みる。赤色は流されて足元の排水溝へ。それを目にすると、硝子の破片で切ったことを思い出す。痛みを痛みと認識しなくなっているのか、傷を作っていても自ら実感が湧かない。口元を歪める。
シャワーを止めて湯船に浸かると、透明な湯が淵から溢れてタイルの床に侵略した。冬場はとても寒いこの風呂場。水を敷いた床は冷たく、滑りやすかった。
「……はぁ」
熱めの湯が身体を外側から温めてゆく。知らず悴んでいた手足の指先は、びりびりと痺れるようだ。顎まで浸かり、自然と溜め息が漏れる。
これからどうしようと、漠然と思う。学校についてだ。
今日のことで、もう行きたくないと思った。今までも確かにそうだったが、一層、その気持ちは強まった。面倒くさいから行きたくない、のではなく、――怖いから。
あの冷めた視線に、不審な視線に、奇妙なものを見る視線に、耐えられない。
今までのような、不良に対する恐怖や軽蔑、嫌悪なら、当然と思ってやり過ごせる。けれど、一瞬にして変わってしまった視線の意味に、大河は初めて臆した。
怖い。その感情を抱いたのは、一体何年ぶりか。まさか、自分がそんな情けない感情を持つなど予想もしていなかった大河は僅かに狼狽した。それだけ頭のおかしい人間と見なされるのは絶対に嫌だったのだ。常軌を脱した存在。そのレッテルを貼られることは、大河を深く傷つけるだろう。
大河を見る目の変化は、多分、些細だ。しかし大河自身にとっては大きい。
(行くの止めるか……?)
このままでは引き籠り同然になってしまうだろうということは分かっている。単なるサボりが登校拒否に変わる。たったそれだけのことだが、周囲に何と思われるか。クラスメイトに、学校に来ない理由を憶測されるのは気持ち悪い。いや、潔く退学……。
(何、馬鹿なこと考えてるんだ、俺は)
湯を顔に叩き付けながら、そう簡単に自主退学という選択肢が浮かんでしまう自分に、大河は強い嫌悪を抱く。
馬鹿馬鹿しい。こんなことで、酷く追い詰められている自分。そこまで悩むことかと冷静に諌める。どの程度の問題なのか、把握できていない。自分の悩みは、どのスケールで展開されているのか。深く悩んだことがなかっただけに、対処の仕方を知らない。この混乱を、どう納めればいいのか、大河は術を知らなかった。
(他人の目なんて気にしたこと、なかっただろうが)
どのくらいの時間浸かっているのか、額に浮き出た粒の汗が瞼を伝って目に入ろうとするのを指で拒んだ。
どうしてこんなに弱くなったのだろう。それとも、最初から弱かったのだろうか。虚勢で飾り立てて、強くなったふりをしていただけだったのだろうか。
思い出すのは、昔の、あの日。他人と自分を隔て、なるべく関わらずに生きて行こうと決めたあの時。
その時の自分は、まだ強いと言えたのだろうか。
「――……」
バシャ、と耳に心地よい水の音。自分が滑稽に思えた大河は、一度頭まで沈め、そして再び顔を出した。すぐに戻ってきた酸素。睫毛に乗る水滴を指で払い、大河は気付いた。
硝子の向こうに何かが映っている。
白くて、大きい何か。擦り硝子越しでは、その輪郭は不明瞭だ。犬飼か、と思ったが、大河はその考えをすぐに改めた。
「……!!」
僅かな隙間から覗き込む、黒くて大きな目玉。ぎょろりと動き、視線は定まらない。蠅のように空中を飛び回ったかと思うと、虚ろな瞳は焦点を決め、次第に大河を映し出した。
ウサギだ。
息を呑み、バスタブの淵を掴む。水面がバシャンと大きな音を立てたのと同時に、バスルームの戸がガラリと開いた。
その姿の全体が露わになった。随所から綿が飛び出た着ぐるみは、いつかの記憶と少し異なる。
白くて柔らかそうな腹部。一部がどす黒く変色していた。血が乾いたあとのように。
そこから彼の行動はスローモーションに見えた。大河が瞬きをして次に目を開いた瞬間には、視界は大きく変化していた。
見慣れたバスルームの滑らかなタイルではなく、大河の視界を覆い尽くすのは何かの卵かと錯覚するような大量の気泡。遅れて息苦しさが攻め寄せてきた。耳栓で塞がれたように聴覚が籠る。
「ぐ、ぅ……ッぷ」
湯の中に沈められていた。首に何か巻き付いていると思ったら、毛皮に覆われた手だ。加減のない力が喉元を圧迫すると、肺から空気の塊が溢れてゴボリと音を立てた。
殺される。
首元の手を必死で外そうとするが、力なく引っ掻くだけで抵抗らしい抵抗にならない。それが仇になったのか、今度は短い間隔を置いてギュ、ギュと規則的に力を加えてきた。喉仏を圧迫されて大河は水中でもがいた。湯は何故か氷水のように酷く冷たい。
水が口と鼻を通って肺に到達している。どの部位が、と明確には分からないが顔の奥と喉、胸が焼けるように痛かった。
(死ぬ、……死ぬ!)
仰向けの体勢で沈められる大河の目に映るのは次々と生まれる泡と、ゆらゆら揺らめく相手の大きな影。手足が湯船の壁を殴り、籠った音が水中に響く。大河自身の激しい心音も伝わってくる。
(誰か――)
視界が狭まり意識が遠のく最中で、上から加えられる重力と首元の力が不意に弱まり、すっと消えた。淵に掴まって浮上した大河が反射的に息を吸い込むと、肺が突然の酸素に驚いて咽る。咳をすると鼻や口から水が飛び出てくる。
喉と鼻と口と胸が痛い。その部位を切り離してしまいたいくらい、鋭い激痛を訴える。視界はぼやけてしまい、何も見えない。耳に入った水のせいで何も聞こえない。頭の奥で甲高い音が鳴り響く。
「ゲホ、…ッゲホ……は、っ…あ」
ぜいぜいと胸が上下するが上手く呼吸が出来なかった。窒息から免れた筈なのに相変わらず酷く苦しい。
五感では何も得られない。自分という存在が本当に存在しているのか、生きているのか確認できない。
死んでしまうという強い恐怖はなかなか離れず、大河はいまだ恐慌状態に陥っていた。
突然、実体のある温もりが頬に触れた。液体のような曖昧な感触だったが、それは優しく大河を撫で、身体を柔らかく包み込んだ。
「……っ」
本当に場違いなくらい温かい。いつの間にか冷水に変化している湯船の中の液体とは真逆の包容力。それに肩を強く抱かれると、不思議と――安堵する。
安堵すれば、大河の意思とは関係なく目から涙が溢れてくる。自分自身にびっくりしていると、喉がきゅっと絞まって苦しくなった。嗚咽が漏れそうになる。
暫くはその誰かに抱かれて呼吸を整えていた。
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