密室アクアリウム

(10)

「いいか、絶対、ここは次回のテストに出るぞ。っていうか出すからな。反語形の例文は後でテキストでもう一度確認しておけよー。はい次」

 隣の教室まで突き抜けるような音量で喋りながら、柏木が黒板に白い文字を走らせていく。達筆なようで、見方によっては汚いとも取れる形は柏木らしい。
 鵜沢高校の国語科の教師は大半が女性で、漢文が専門の男性教師は珍しいと言う。それに柏木は教えるのが上手い、らしく、HR担任であるからか大河のクラスの古典担任も務める柏木は、何かと生徒に人気のようだ。
 というのは聞いた話で、大河自身、最後はいつ柏木の授業を受けたのかすら忘れてしまった。どういう授業だったか、何の単元を習っていたのか、今日の授業が始まるまで全く分からなかった。

 分かりやすいと評判の柏木の授業でさえ、大河は何が何だかさっぱり、理解できない。やれば出来るよお前は、と何度か言われたことがあるが、勉強に熱を起こしたのは高校入試くらいだ。最底辺の学力を何とか標準まで引っ張り上げ、入学後手をつけずにいたら素晴らしい結果になった。

「えー、謂ひて曰く、君王人と為り忍びず。若入りて前みて寿を為せ――」

 柏木が教科書の漢文を朗々と読み上げていく。今回の単元は司馬遷の『史記』から『鴻門之会』らしいが……これがまた、どんな話なのか、欠片も理解できていない。シャットダウンしそうになる思考を引き止めて黒板を見遣ると、一体何を書いているのかというほど漢字に埋め尽くされている。
 苦味の残る口内に顔を歪め、軽く咳き込む。喉の奥にはまだ吐瀉物が張り付いていそうで気持ち悪い。無理矢理に唾を溜めて飲み下すと、喉がねばついて奇妙な痛みを訴える。ぐう、という変な音が鳴ったのは周囲には聞こえていない筈だ。

「『人と為り』は人柄の意、『寿』は長寿の祝いの意味な。じゃ、ヒントやったから訳して貰うか」

 柏木が教室全体を見渡す。すると生徒はあからさまに顔を逸らしたり柏木と目が合わないように俯き始めた。当てて欲しくないという雰囲気が濃く流れている。
 大河がこれっぽちも理解していないのは向こうも承知済みだろうから、当てられることはまずないだろう。吐いたせいなのか普段より力の入らない拳を握り締め、何となく、窓の外を見た。

 雪はまだ降っている。先程より吹き付ける量が多くなっただろうか。雪一塊が大きい。水分を多分に含んだ白い粉が窓にぶつかり、内側からの熱によってすぐに溶けてしまう。硝子の表面が雨に降られたように濡れていた。

(……そういや)

 最後に柏木の授業を受けたのは、ごく最近のことではなかったか。その時は授業を聞く気なんか微塵もなく、同じように窓の外を眺め――。

 何か異変が起こったのだった。


「よし、じゃあ仲宗根。この文訳して」

 唐突に名前を呼ばれ、弾かれたように教壇に顔を向けた。まさか久しぶりの授業で当たるとは予想もしておらず、心の準備をしていなかった大河は戸惑った。柏木に目で訴えると、どう汲み取ったのか親指を立ててよこした。

(サボりに対する嫌がらせかっつの)

 仕方なく起立した大河だが、じっと黒板を見つめるばかりで何の答えも捻りだすことが出来ない。ほぼ睨むような形だ。何も言葉を発しない大河に、数人のクラスメイトが控えめに振り返った。「分かりません」と答えようとして口を開いたが、紡いだ言葉は別のものだった。「…おい」


「……?」

 違う。
 今の「おい」は大河ではない。自分で言ったつもりになっていたが、今のは隣から聞こえてきたものだ。右隣の生徒が大河に話し掛ける筈がない。
 左を横目で見ると――案の定というか――奴がいた。


「……どうして今なんだ」

 大河の苦々しい呟きは誰の耳に届くこともなく、途中で消えた。
 驚きはした。けれど、それよりも苛立ちの方が強かった。
 数秒前までは「怒」の感情なんて皆無だったのに、隣に犬飼の姿を認めてから急に沸々と音を立てて熱を持ち始めた。

「やっぱ分からないか。あー、悪いな大河。もう座って――」

「どうせなら俺が屋上にいた時に来いよ!」

 怒号してから、後悔した。今のは絶対、間違ったと。柏木の「え」という呆けた声を聞いて思うのだ。
 時折、自分が分からなくなる。何が逆鱗なのか、何処が沸点なのか、どうしてこうもキレやすいのか。感情を自制できないのか。特に、怒りの感情を。
 自分に期待はしていなかった。気付いた時には叫んでいた。

「ど……どうした、仲宗根」
「うっぜえんだよ……お前、俺の話聞いてないだろ。何度も、俺の前に現れるなって、もうお前の面は見たくねえって、言っただろうが……!!」

 ゴン! と拳が机と接触して大きな音を立てた。知らぬ間に殴りつけていたようで、まだ板書を移していないノートに皺が生まれている。黙ってその罫線と皺を見つめていた。すぐ隣に立っている筈の犬飼の顔は見れない。

「仲宗根……?」

 濃い困惑が滲んだ声で、大河は我に返った。そして沢山の瞳が自分に集まっているのを感じて、眩暈がした。犬飼はいつの間にかいなくなっていて、何だか裏切られた気分になった。
 そもそも、彼は最初からいたのだろうか。大河の見間違いということはないか。
 それを思うといても立ってもいられなくなり、椅子を蹴るように教室から走り出た。
 誰の足音か、背後から追いかけて来ている奴がいる。大河は構わずに走った。

(最悪だ――)

 大河の行動は異常なものとして映ったに違いなかった。指名されて立ち上がり、ずっと無言でいたかと思うと突然意味不明なことを口走って、逃げ出した。傍から見れば、十分に狂っているとしか思えない行動。奇行だ。
 それまで恐怖の対象としてしか大河を見ていなかったクラスメイトたちの目が、確かに奇異と不審の色に変わった。
 恥ずかしい、なんてものではない。いっそ死んでしまいたいくらいの失態だ。大失態……。

 ガシャアン

「…っ!?」

 昇降口に向かう廊下、鋭い破片が大河の頭上に降りかかった。窓が割れたのだ。細かい粒が目に入る直前に固く瞑り、反射的に腕を交差して顔を庇う。硝子は甲高い音を立てて床に散らばった。

「仲宗根!?」

 追いついた柏木が一瞬躊躇い、足元に注意を払って大河に近寄った。柏木が逃がすまいと掴んだ大河の手からは、血が滴り落ちている。傷口が熱い。

「何だ、今の……何で割れたんだ」

 割れて星形の穴を作った窓硝子を見ながら柏木が呆然として言った。誰に尋ねるでもなく、ただの呟きだった。
 外から飛来物があったのではない。床の上には、ボールも鳥も、硝子以外に何一つ落ちていない。

「なあ、仲宗根。今の、何だろう」
「知るかよ、俺が」

 そんなの、こっちが教えて欲しかった。
 掴まれた手を振り払うように腕を引き寄せるが、ぎゅっと手首を握る力が更に強まっただけだった。無言で柏木の横顔を見つめる。

「大丈夫か?」

 シャープな輪郭の鼻先に目を留めると、担任の教師がゆっくり瞳を動かせて大河を見た。ジャリ、足元で不快な音が鳴る。外との隔たりが消え失せた窓から、雪が侵入し、床を濡らしていく。

「仲宗根、お前、最近どうしたんだ。何か悩みでもあるのか」

 らしくない、真摯な表情。必要もないのに声を潜めて尋ねる柏木の様子から、彼が心から大河のことを心配しているのが伝わってきた。それが嫌だった。心配すると同時に、大河を奇妙なものとして扱おうとしている。

 そんな目で俺を見るな。頭のおかしい人間を見るような目で俺を見るな。

「話してみろ。一人で抱え込むのは良くない」
「うぜえ……」
「急に教室から飛び出したりしたら、心配するのも当然だろう。何でさっき、あんな……」
「放っておけよ! 関わんな!!」

 感情が高ぶって、柏木を突き飛ばした。足元の硝子とリノリウムが擦れ合って水と混じり、滑りやすくなった床は柏木のバランスを奪い、転倒させた。

「っつ……」

 担任が硝子の上に転んだとしても、罪悪感を感じる余裕はなかった。メーターを振り切った気持ちを容赦なくぶつけることで精一杯だった。

「どうせ言ったって、俺の話なんか信じねえよ! こいつは頭がおかしいって思うだけだ」
「何でおかしいんだ。話してみないと分からないだろ」
「話さなくても分かんだよ。俺だって信じられねえ、…信じたくねえんだ。……何かいる、見えるってのが」
「いる?」

 話したくない。けれど心のどこかで、話してしまいたい、打ち明けてしまいたいと主張する部分がある。そんなの無理だって知っているのに。
 これ以上この場にいたら言わなくてもいいことまで柏木にぶちまけてしまいそうで、取りあえず走った。仲宗根、と叫ぶ声を背中に受ける。

 学校から出ても状況は変わらないということは心に留めている筈だった。きっと場所なんて関係ない。大河の意思とは勿論無関係で、時間も、状況も、何もかも無視して“何か”は迫ってくるのだ。
 それでも人のいない所へ行きたかった。一人になってしまえば、周囲の目を気にする必要はなくなる。あの視線を受けることはなくなる。
 それは、とても楽なことだった。

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