密室アクアリウム

(9)

 校内の各教室は四時間目の授業の最中で、廊下を歩くとかしこから教師の張り上げられた声が聞こえてくる。大河はそれを無視し、当然のように階段を上り、屋上へ出た。
 軋むドアを開けると、冷たい風が身体に直撃する。それに、白くて小さいものが視界のあちこちで舞っていた。

 先程までは降っていなかったのに、雪だ。地面に視線を落とすと、灰色のコンクリートが僅かに湿っている。
 漸く「冬」という感じがしてきた。冷たくて寒い憂鬱な季節だ。制服に舞い降りた細かな粉は、すぐに溶けて水に戻ってしまう。水滴を払いのけ、大河はフェンスに寄り掛かった。

 気付けば犬飼は消えていた。
 本当に、変な奴だ。勝手に現れて勝手に立ち去る。現れるのは歓迎しないが、大河の前からいなくなってくれることは好都合だった。
 思えば、夜の教室で犬飼と会ってから、まだ二日しか経過していない。その短い間に、何度犬飼を怒鳴りつけただろう。何度出て行け姿を見せるなと叫んだだろうか。
 犬飼を拒絶するのに何も特別な理由はない。傍に他人を置いておきたくないのは、元来の大河の性質だ。近くに、隣に、誰かの温もりがある。何か大河に対して目的を持って傍にいる。これほど居心地の悪いことはない。幽霊ならば尚更だ。

 特に、犬飼の言うことは理解不能だった。そもそも言葉が極端に少ないし、必要なことは何一つとして教えてくれないので、情報が足りない。“危険”だったら何なのか。何が危険なのか。

 思えば、犬飼と関わってから――彼が亡くなる前だ――大河の周りでは何度か奇怪な現象が起こっている。彼は、それが危険だと主張したいのか。
 もしかしたら犬飼の言うことは全て嘘で、犬飼がそれを作り出している可能性もある。
 ……全く、分からない。何が真実で、現実で、何が嘘で、幻なのか。
 犬飼は何者なのか。

「報われねえ……」

「ねえ」

 
 突然、何者かに声を掛けられる。大河はビクリと肩を揺らしてそれを見た。
 隣に、一人の女子生徒が立っている。
 いつ、屋上へ来たのか。ドアが開閉する音は聞いていない。
 大河が胡乱に見ていると、女子は薄く笑んで、厚みのある唇を開いた。花の香りが漂う。フレグランスではなく、花粉が強い生花の。

「ちょっとお願いがあるんだけど」

 フェンスから身体を浮かせ大河の正面に回ると、少し屈んで彼女は言った。制服の裾からはみ出た灰色のセーターと、長い黒髪の、別段特徴的ではないが多分可愛い部類に入る女子だ。学年は……分からない。

「本当に簡単なことなんだ。いいかな?」
「……知らねえよ。何で俺が」 

 見ず知らずの、しかも胡散臭い奴の頼みを聞く程、大河は善人ではない。意外そうに目を丸くする女子を無視し、彼女を越して屋上を立ち去ろうとする――が。

「ただ見てるだけでいいの。私が飛ぶところ!」

「――は……?」

 背後から飛んできた恐ろしい台詞に大河が咄嗟に振り向くと、そこにはすでに彼女は立っていなかった。
 かわりに、フェンスの向こう側に立っていた。強く吹き付ける風を受けて佇んでいる。

「おい! お前、何やってんだ!」
「何って、今、言ったじゃん」

 大河がフェンスに駆け寄ったところで、彼女はコンクリートを蹴った。一瞬の躊躇いもなく、スタンディングスタートで駆け出すように、脚を動かして宙に浮き、そして降下した。

「なっ……!!」

 少し間を置いて、離れたところで水分のあるものが潰れた音が確かに届いた。ここから見下ろせば中庭だろう。彼女は中庭に、飛び降りたのだ。
 
「……」

 見下ろす勇気はなかった。きっと少しでも身を乗り出せば、見えてしまうだろう。その様が。肉がグチャグチャに潰れ、血が溢れている様子が。

「自殺……だよな」

 あまりにも呆気なく終わってしまうものだから、いま大河の目の前で行われたことが本当に自殺なのか疑わしくなってくる。冗談だろう。俺の前で自殺なんて。止めてくれ。逸る動悸を感じながら、大河はフェンスに手を掛けた。

(どうする。……見るか?)

 大河は自分に問いかけるが、当然何の反応も返って来ない。下を覗くか、このまま何もなかったことにして立ち去るか。賢明な選択は後者だ。見てしまったら、絶対に後悔する。後悔するのは知っているけれど、知らぬふりを通すのも何となく後ろ暗い。

 ガシャアン、とフェンスが揺れる。吹いた風に後押しされた大河が中庭を覗き見ると、落とした視線の先には何もなかった。

「……何で」

 さっき、あの女子生徒はここから飛び降りた。大河はこの目でしっかりその現場を見ていた。落ちた筈だ。落ちて、中庭の緑色の芝生に叩き付けられた筈だ。衝撃で恐ろしい音がした。彼女は潰れた筈だ。潰れて、頭部が割れて、グチャグチャになっている筈だ――。


「あはははは!! 大河君、面白いね!!」

 背後から甲高い哄笑。耳をつんざく女の声。
 心臓が壊れそうなくらい爆音を立てる。振り返ったそこには、飛び降りた女子生徒が立っている。
 驚愕のあまり声も出なかった。そしておぞましい光景を目にして、ぞっとした。

「何で生きてるんだ!!」

 その姿で、彼女が生きている筈がなかった。脳天が割れ、脳漿が漏れ出し、全身血塗れで、脚の肉が潰れた状態で……命を保っているのはおかしい。有り得ない。何より、そのグロテスクな様相が酷い。枝が刺さったのか、腹が裂けている。何の臭いなのか、とても臭い。
 生花の香りと混じって。

「生きてる? 違うよ。私は、もう死んでるのよ。あなたに会うずっと前に死んでいるの。ここから飛び降りてね。こんな風になっちゃったの」

 裂けた唇で微笑んで、女が大河に歩み寄る。生理的な嫌悪を誘う臭いが鼻をついて、大河は息を詰めた。口だけで呼吸をしても、これは辛い。臭いは攻め寄せてくる。

「来るな……俺に近寄んなっ」
「あ……!」

 手で触れられる位置に来た彼女を払うように腕を振ると、確かに衝撃があった。何かに当たった感触があった。生温いようで冷たく、粘着質な何かに触れた。
 見ると、女から頭部がなくなっていた。代わりに、大河の手に黒い液体と茶色く濁った球体がべったりと付着している。
 
 これは何だ。

「……ッ!!」

 立ち尽くす女を置いて、大河は一目散に屋上の出口へと走った。汚れた右手を身体の側面に不自然に垂らしながら走り、階段を駆け下り、二階へ。

 何かに汚れた手に目を落とすと、黒い液体が細かい泡と煙を立てて大河の手に染み込んでいるようだった。粘着性のある物質で、球体が手の甲に張り付いている。あまりに汚すぎる自分の手に、大河は思わず悲鳴が漏れそうになるが、既に昼休みも半ばに差し掛かっているらしく、正面から歩いてきた生徒を視界に入れて右手をポケットの中に隠した。

(何で便所が階段の反対側にあるんだよ……!)

 あと、教室三部屋分。それをクリアすればトイレに着く。それまで我慢しなければいけない。気持ち悪いこの手に耐えなければならない。
 しかし、酷い臭いだ。この臭いに周囲が気付かない訳がない。大河は吐き気すら催してきた。

「あ、仲宗根!」

 柏木の声だ。
 ちょうど、通り過ぎた教室から出て来た。

「こんな時間に登校か。もう進級は諦めたのか?」

 動悸と共に舌打ちした。こんな時に邪魔をするか。空気読め。馬鹿野郎、死ね。……吐きそうだ。
 様々は罵詈雑言が浮かんできて、いちいち柏木を罵ってしまいたくなるが、一言でも声を発しようとすると、胃から何かが這い上がってきそうで出来ない。

「お前、また喧嘩したそうだな。鵜沢高校の仲宗根大河君が近所の公園で他校の生徒と喧嘩していましたって、昨日、学校に電話があったんだ。わざわざ。もうおばちゃんたちに顔と名前セットで覚えられてるぞ」

 柏木は出席簿と教材を重そうに両手に抱えて、嘆息した。対して、大河は苛立った。廊下のど真ん中で説教を始めなくたっていいだろう。大河の状態も図らず、柏木は喋り続ける。

(やべ……何か来る)

 一瞬、軽い酩酊状態に陥る。喉の奥まで酸味のある熱い液体がせり上がる。唾を飲み込んで追い返すが、すぐに再びやって来た吐き気。
 柏木は、何も臭いを感じないのだろうか。大河は本当に吐きそうだというのに。

「それに、この間の追試、受けにこなかっただろ。あれクリアしないと、マジで来年も二年生だぞ。後で絶対に来いよ。赤点取ってもたとえ0点でも単位加算してやるから――って、おい、仲宗根」

 耐えきれずに大河は柏木を無視して、再びトイレへ歩き出した。自然と速足になると、向かってくる生徒とぶつかりそうになる。しかし、ポケットに手を突っ込んで睥睨しながら歩く大河。向こうから先に廊下の端に寄ってくれる。こればかりは感謝したい。
 
(あんな長い話、聞いていられるか)

 進級とか、追試とか、今はそれどころじゃないのだ。
 トイレに入った瞬間、大河は水道の蛇口を捻って右手を洗った。幸い、大河の他に誰もいない。
 冬場の冷たい水に手が痺れる。汚い色が流されていく。濁った水が排水溝に吸い込まれる。ぐるぐると渦を描いて消えていく。最後に、球体が落ちていった。

「う……、っ」

 すぐ、そこまで来ている。朝食べて消化途中のものが、すぐそこまで迫っているのを感じる。徐々に上昇する。喉を焼く酸味。

 誰かがトイレに入ってきた。

「……仲宗根?」

 宇佐美路人だ。ちょんまげにした前髪が揺れた。

「大丈夫か? 何か、具合が……」

 酸味が口の中に広がる。諦念に似た感情も一緒に広がる。

「ぅ…っ、ぉえ…ッ」

 手洗い場の淵を握り、込み上げたものを嘔吐した。黄土色のゲルが白の上に広がり、水と一緒に流れる。
 臭い。そのせいでまた吐いた。鼻がつんとする。

「どっか悪いのか。保健室行く?」

 臭いだろうに、躊躇った風もなく大河の背中をさする宇佐美。誰かにそうされると、嘔吐は止まりそうなのに身体が全てを出そうとして、喉に引っ掛かる。震える右手で払いのけ、咳き込んだ。

「ぅ、…ふ」

 目尻に滲んだ涙を拭う。噴き出す水を掬って口に含み、吐き出した。口内に残っていた滓が穴に流れていく。吐瀉物が全て見えなくなった頃、大河は我に返った。そして首が熱くなるのを感じた。

「仲宗根」

 大丈夫か、と心配の色を滲ませて問う宇佐美。どうしてこの時に来てしまったのか。この情けない状況に居合わせてしまったのか。自分にも苛立ちはするが、タイミングの悪い宇佐美にも腹が立つ。

「保健室まで送った方がいい?」
「何で保健室行く前提になってんだよ。……いらねえ」

 大丈夫かと聞かれれば、大丈夫ではない。けれど学校に来て保健室で休むだけなら、家にいるのを同じだ。欠課するなら、大河がわざわざ学校に来た意味がなかった。
 
 時刻を告げるチャイムが鳴る。五時間目が始まる予冷のようで、トイレの外から慌ただしい足音が聞こえる。内臓のムカつきと共に次の授業は何か考えながら大河はトイレを後にした。宇佐美が大河の背中を見つめて立ち竦んでいるのを置き去りにして。

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