密室アクアリウム

(8)

 一日休むとすっかり身体の疲労も抜け落ちて、ベッドから這い出るのも億劫ではなくなった。翌日、ぼんやりする頭を抱えて部屋から出ると、大河は洗面所に向かう。
 心境も僅かだか軽くなったのは、昨日、公園で絡まれた奴らでストレスを発散したからだろうか。体調は優れないというのに結局喧嘩してしまったのは間違った選択ではなかったらしい。ただ、手の甲に切り傷が新しく生まれた。

 犬飼は昨日の朝から見ていない。
 もともと大河の生活の中に犬飼孝弘という男は存在していなかったのだから今になって気に掛けることではないが、二日続けて大河の前に現れた“亡霊”なのだから、いないといないで「見てねえな」という気持ちにはなる。
 
 このまま、何も起こらなければいい。あいつが現れることも、奇怪な現象も。いつも通りの生活に戻ればいい。
 蛇口から噴き出す冷たい水を掬って顔に叩き付ける。手から腕を伝って肘へ流れる水を不快に思いながら顔を上げた時、正面の鏡の端に何かが映ったような気がした。

「……」

 振り返るが、勿論何もない。額からの水が睫毛に引っ掛かって、やがて視界は水でぼやけてしまった。
 タオルを手に取り、顔を拭く。白い布が覆っていた視界には、遮りが無くなっても異質な何かを映し出すことはなかった。

(何か……)


 何となく。何となくだが、今日は家にいたくない。理由は分からないが。
 時計を見ると、既に授業が始まっている時刻だった。今日は学校へ行こうか。欠課しすぎると進級が危うい。
 大河はのろのろと制服に着替えると、昨日の夕食の残りを食べて自宅を出た。


 誰一人知り合いのいない空間ほど落ち着く場所はない。
 電車は好きだ。時折見かけるサラリーマンや学生もいるが、彼らは電車という空間内においては自分以外の存在は気に留めない。たとえ顔は知っていても名前を知らないのであれば、人間は不思議なもので、必要以上に関わり合おうとする者は少ない。
 それに、車両を変えれば、乗る時刻を変えれば、普段とはまったく違う空気を感じさせてくれる。

(人、少ねえな……)

 とうに通勤、通学ラッシュを過ぎ、昼間に近い。朝なら黒い制服やスーツでごった返す車両は、今はその面影もない程に空いていた。満員電車の中、他人と肩や腕が触れ合うのが嫌だからというのも、些細ではあるが大河が遅刻登校する理由の一つでもある。

 向かいの席には着物姿の老婦人が居眠りをし、大河から一人分のスペースを空けて座っているのは年寄りと幼い孫の二人組。平日の日中の電車利用者といえば、老人と子供が主だろう。
 安心して眠れる空間だ。
 知り合いではない、しかし誰かしら同じ場所で同じ空気を吸っている。この遠くて近い距離が大河には心地いい。息が詰まらず、しかし余計な解放感もない、公共の空間。
 電車を筆頭に上げる、緩やかな居場所が大河は好きだった。瞼は自然と重さを増して瞳にシャッターを下ろす。


 プシュー、と炭酸飲料の口を開けた時の音が鳴り、ドアが開いた。ホームへ出ると、やはり電車同様に人は少ない。田舎の日中の駅はこんなものだろう。
 改札口を通過し、外へ出る。晴れとも曇りともつかない曖昧な空だ。一面に広がる雲の隙間から日光が押し退けるように差している。

 駅からは徒歩で学校に通う。そんなにかからない。時計を見ると、十一時三十五分。ちょうど四時間目が始業した。大河はゆっくり歩く。

「……」

 歩きながら、後ろを振り向いた。初老の男性が乗った自転車が反対側車線を走ってくる。それだけだ。正面を向くと、学校の校門が見える。


(気持ち悪ぃな…)

 駅を出た後から誰かにつけられているように感じるのは気のせいだろうか。足音がするようでしない、人の息遣いが聞こえそうで聞こえない。誰かの中途半端な存在を背後に感じながら歩いていたが、振り向いても誰もいない。自転車が大河を追い抜いて行くだけだ。
 だから気のせいだと割り切ることにした。

 何となく、ポケットから携帯電話を取り出した。一通の着信履歴があった。柏木だ。どうせ、今日も欠席かどうかの確認、あるいは学校に来いという催促なのかもしれない。今日はちゃんと行くつもりだ。鵜沢高校はすぐそこ。
 携帯を閉じた時、――後ろでカサカサと落ち葉が擦れるような音がした。

(やっぱり誰かいるんじゃ……)

 気になって足を止め、背後を振り返る。
 しかし、誰もいない。軽自動車が走行するだけ。

「訳わかんね……」


 正面に返ると、立っていた。
 犬飼が。



 大河は瞠目して、握り締めていた携帯電話を落とした。ガシャン、とアスファルトと機械が接触する。

「落としたぞ」

 犬飼は冷静に指摘する。顎をしゃくって示したのは、裏面の蓋が外れてバッテリーが覗いた携帯。
 純粋に、びっくりした。
 かなり心臓に悪い。

「お前、かよ」
「……携帯」

 再度指摘する犬飼に促され、大河は素直に携帯を拾い上げた。先程までディスプレイに光を灯していたのに、ブラックアウトした今は闇一面だ。バッテリーが外れたから電源が落ちている。

 強烈な視線を感じ、顔を上げた。

「……んだよ。今度は」
「別に」

 別に、はないだろう。用もないのにどうして大河の前に現れるだろうか。
 立ち上がり、携帯を尻ポケットに荒く突っ込んだ。

「だったら失せろ。邪魔」

 突き放して言ったが、次に犬飼が取った行動は更に大河を苛立たせるものだった。
 彼は歩道の脇に身を寄せ、顔色を窺うように大河を見た。これでどうだ、とでも言いたげに。傍らの電信柱は彼を隠すように立っている。

「避けろって言ったんじゃねえよ。俺の前から消えろって言ったんだ」

 さっさと犬飼の前を通り過ぎ、すぐそこに迫る学校へ再び踏み出した。

(マジで、いい加減にしろよ)

 この男はいつまで大河に付き纏う気だろう。彼の目的も知らないまま後をつけられては気味が悪いだけだ。この不快感は多分、ストーカーに付け狙われる女性の心理と似ている。
 どうしてこんなことをするのか。せめてそれだけでも知れたら、何かしら異なる解決策は出てくるだろうに。何を訊いても曖昧な回答しか寄越さない犬飼には、何の打つ手もないじゃないか。

 校門を抜け、敷地に入る。背後からは足跡もしないし、呼吸や気配もない。しかし振り返れば犬飼は確かにいる。大河と一定の距離を保ってそこにいる。
 
 俺にプライバシーはないのか。そう言おうとしたところで、大河は口を噤んだ。どうせ何を言っても無駄だ。理解に苦しむような少ない言葉しか返ってこないだろうから。

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