密室アクアリウム

(6)

 リビングへ出ると、少しくたびれたソファの端に、薄い鞄が小ぢんまりと置かれているのに気づいた。中を漁ると、黒い携帯電話が入っている。
 これも犬飼が届けてくれたのかと考えると憂鬱になった。何からなにまであの男にされるがままで気に食わない。
 心境から来たものなのか喉に何か不快なものが引っ掛かっていて、大河はキッチンの冷蔵庫からペットボトルと取り出して一気に水を煽った。胸がすっと軽くなったような気がする。
 
 今更ながら時計を覗くと、時刻は既に十時を回っていた。学校では二時間目の授業の最中だ。後で担任の柏木から電話が入りそうだと思い、大河は携帯の電源を切った。

 ラフな服装に着替えて、財布をジャージの尻ポケットに押し込む。制服はソファの上で皺くちゃになっていたが気に掛けず、大河は自宅を後にした。


 大河自身、自分の身に何が起こったのか十まで理解できていないが、昨日の今日で体調は良好とは言い難かった。怠さはある程度抜けたものの、全身の関節が軋んだように疲労し、そして熱い。高熱にかかった時のようだ。
 それでも根気で近所のスーパーへ赴いた。というのも、今日は毎月第二木曜の特売日で、全品十パーセント引きなのだ。

 親からの仕送りと偶に入れるバイトの収入で日々の生活をやりくりしているが、それでも学生にとって贅沢な暮らしは望めない。安い日に食糧を仕入れておくのは必須だ。

 平日にも関わらず、スーパーは大勢の主婦で溢れていた。レジにはものすごく長い行列が出来ている。これでは、並んだところで一時間はかかりそうだ。
 昼間のおばちゃんたちの中に長躯のジャージ姿で混ざりながら、大河は予め買うつもりでいた食材を次々にカゴに放り込んで行く。
 豚肉、キャベツ、魚、玉ねぎ、大根、鮭。授業をサボり、喧嘩を厭わない荒れた学生生活を送っていても、不摂生な食生活はしないように心掛けていた。一人暮らしも二年が過ぎようとしている。食費倹約のために自炊し続け、そのおかげかバランスのとれた食事をしているつもりではいる。

「ごめんなさいねえ」

 体格の良い中年主婦が大河の身体を押しのけた。普段であれば何てことはないが、体調が優れないためか少しふらついてしまった。その女性を見遣るが、既にある場所へと向かっていた。
 卵コーナーだ。しかも、彼女が手に取ったもので、残り一パックになってしまった。
 先に誰かに取られないうちに、大河も卵コーナーへ急ぐ。幸い、大河の手中に収まってくれた。家ではちょうど切らしていたのだ。
 ほっとしてレジへ向かう。だいぶ長い時間並んで漸く大河の番が回ってきた時、若い店員が不審げな顔で視線を寄越してきた。

「年齢を確認できるものはお持ちですか」
「……あ」

 未成年か否か判断できない外見で、カゴの中に数本の缶ビールとチューハイを入れていたからだろう。つい煩わしいと思い、店員を鋭い視線で見てしまう。
 今まで、無難にパスできる場合もあれば執拗に身分証明書を求められる場合もあった。今回は後者のケースだろう。
 大河はさりげなく財布を漁って身分証明書を探すふりをすると、小さく舌打ちし、目を細めて睥睨した。

「すいません、忘れてきたみたいです」
「あ、そうですか」

 不自然に目線を逸らした店員は、何事もなかったかのように総計を出して「二千十五円です」と告げた。申し訳ありませんがお客様にお売りすることは出来ません、とは言わないようだ。大河は僅かに口角を上げた。

27/96 亡霊

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