密室アクアリウム

(5)

 制服のままベッドで寝てしまったことに気づいたのは翌朝、目が覚めた時だった。いつもとは違う窮屈感に顔を歪ませ、大河は唸りながら寝返りを打つ。
 薄く目を開いたと同時に、朝一番の声を上げた。

「何でいるんだよ!」

 ベッドの脇に腰掛ける制服の後ろ姿は――間違いなく、犬飼孝弘。大河の声に反応して振り向いた顔は相変わらずの氷の温度。
 どうして朝からこの男の顔を見なければならないのか。
 反射的に上体を起こすと、身体中の関節がミシミシと軋んだ。大河は怒りを剥き出しにして吠え、犬飼に掴みかかった。

「出て行く気はないと言った」
「この野郎……ッ」

 今度こそ相手の胸倉を掴んでその憎たらしい顔面を殴りつけようとしたが、急に対象の重さがなくなり、大河の身体はベッドのシーツへと沈んだ。相手が透過すると昨日の経験で知っているのに、ついやってしまう。
 起き上がろうとしたところで、仰向けになった大河の上に実体のある重力がのしかかった。男に肩を押さえつけられ、見下ろされている。

「くそっ…、どけよ!」

 無論、言葉での要求で動く筈がなく、大河は身を捩って脚をばたつかせた。しかしそんな必死の抵抗も虚しく、膝の上に載られてはもはや何の術もない。

「ふざけんなよ。人の家に勝手に入りやがって……二度と来るなって言っただろうがっ」

 切実に訴えた言葉さえも伝わらないらしい。昨日、あれだけ体力を疲弊したというのに、この男はまったく堪えていないのだろう。ことごとく馬鹿にされているようで、大河は唇を噛んだ後、拳をベッドに叩き付けた。くそ、ともう一度吐く。
 腕力を行使すれば何でも物事は解決できる。今までそう思っていただけに、物理的な力を無効化してしまう相手を前にして、大河は形容しがたい無力感を覚えた。手も足もでない。それを思い知ると、心まで引き摺られる。

「何なんだよ、……何がしてえんだよ。俺への嫌がらせかよ。俺、何もしてねえのに……っ」

 語尾が微かに震えてしまう自分の声を聞いて、大河は自身へ悪態を吐いた。すると心が「うるせえな、分かってるよ」とぶっきら棒に反論してくれるのにはまだ救いがあった。
 犬飼と会話をするには何の救いもない。大河だけが言葉のボールを投げつけているようなもので、相手はキャッチするどころかその存在をボールとして認識しているのかどうかせ怪しい。その証拠に、まるで犬猫を相手にしているかのように、大河への扱いはいい加減だ。
 どうして、何も言ってくれないのか。
 何か言ってくれないと、次にどう行動していいのか、分からない。だから、犬飼を罵るという短絡的な選択肢しか選べない。

「お前が……」

 犬飼はボソリと呟いた。無意識に大河は身を固くし、何を口にするのか待ち受けていた。
 しかしそれを言ったきり、犬飼は押し黙ってしまった。口を堅く閉ざして、続きを紡ごうとしない。

「俺が、何だよ」

 大河は急かすが、既に何も言わんと決めてしまったのか、数秒待っても何かを言う様子はない。胸中に小さな靄が生じた。

「言いてえことがあるなら……」

 犬飼の真っ黒な左目が眩しそうに眇められ、思わず大河は言葉を止めた。
 相手の手が首筋に触れる。

「!」

 触れた感覚はある。しかし温度がないせいか、生き物ではないものに接触されたような妙な感覚を同時に覚え、肌が泡立った。確かに、彼は生き物ではない。

「何……」

 ちょうど、部屋のカーテンの隙間から漏れた朝日が犬飼の身体に差し込み、神秘的な光景を大河の眼前に造り出していた。プロジェクターで光を色を投影したような、アート作品。
 綺麗だ。

 不覚にも一瞬ではあるが気を取られてしまった大河の頬を、のっぺりとした手が上へ上へと彷徨う。何をするつもりだと睨みながら身を強張らせると、その透けた手が大河の短い金髪をくしゃりと掴んだ。

「何すん……」

 途端、身体へ伸し掛かる重力が消えた。そして、犬飼の身体が細かな光の粒になって弾け飛んだ。目を奪われる間もなく、大河は、バッと上体を起こした。

「いなくなった、のか……?」

 部屋を見回すが、いつもの殺風景が鎮座しているだけで、あの異様な存在は感じられない。
 朝だから幽霊は消えていなくなるのかと考えるが、それは短絡だ。

(……学校)

 枕元を探すが、携帯は見当たらない。そもそも、学校で倒れて気付くと自宅にいたのだから、私物の行方が知れない。
 まあ、行かなくてもいいだろう。今までだって、まともに登校していなかったのだから。

 何だか気分がモヤモヤして、すべてが億劫に感じる。ベッドから抜けてフローリングに足の裏をつけることさえ。ぶすっとしながら、大河は頭をがしがしと掻き混ぜた。

「あいつ……」

 一体、何が目的なのだろう。昨日からずっと疑問だったことを反芻する。
 くそ、と同じ単語を吐いた。誰かに撫でられたことなど何年ぶりだと考えるが、記憶の中に明確な形を持って残っている筈がなかった。

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