密室アクアリウム

(3)

 犬飼は続けて言う。

「俺は死んだ。交差点でトラックに撥ねられて、搬送先の病院で」

 死んだ、と本人が口にするのを聞くのは、これ以上ないくらいに奇妙な感触だった。
 本当に死んだのであれば、今、大河の前に姿を現しているのはおかしい。変なのだ。

(俺、マジで頭おかしくなったのか……?)

 氷水よりも冷たい壁に体重を預けながら、大河は考える。目の前にそびえたつ犬飼孝弘。やはり幻か。すべて大河自身が造り出した妄想なのか。

「夢じゃない。幻覚でもない」

 心を読まれたようなタイミングだった。乾燥しきって水分を欲する口を開き、大河は漸くまともな問いを出来るようになった。

「じゃあ、何なんだよ。……幽霊、とでも言うつもりかよ……ハッ」

 自分で言って馬鹿馬鹿しくなる。自嘲の乾いた笑いが漏れたことに大河は驚いた。そんな余裕があったのか。手足の末端が氷のように冷たくなるほどに緊張し、混乱していた脳味噌に、自らを嘲ることが出来たのか。

 身体は既に限界だった。異常な負荷の加わった足腰が立たない。大河はずるずるとしゃがみ込み、灯台のようにのっそりと佇む犬飼を仰いだ。片手で顔を覆う。

「多分、そうだ」
「……多分?」

 多分って何だ。自分のことなのに分からないのか?

「はっきりしろよ。自分のことだろうが」

 理不尽な怒りが込み上げる。既に頭は混乱した情報を整理することを放棄し、ただ与えられる感覚のみに忠実になっている。犬飼の言うことが本当かどうかなど、もはやどうでもよくなっていた。
 いまこの時が、幻か現実かなど、さして問題ではない。
 瞬間的にそんな気がした。

 そして――自分のことが分からないのは、大河自身も同じではないのか。
 改めて気づいて、気分は落ち込む。ぐちゃぐちゃになった思考が冷却されてフリーズするのは、残飯を掻き混ぜて排水溝に流してしまうような後味の悪さと似ていた。

「……未練でもあるのか。だから、成仏できないで留まってんのかよ」

 幽霊なんて信じない。絶対にいないものだと思っていた。しかし最近身の回りに起こる奇怪な現象……あれを考えれば、あれが幻覚などではなかったなら、馬鹿げた話だとは思うが幽霊なんかはいくらでもいそうな気がした。

「分からない」
「……」

 この男のすべてが理解できない。
 “わからない”の一言で片づけてしまうのは単に面倒くさいだけなのか、それとも本当に自分自身に起こったことが理解出来ていないのか。
 すべてを放棄するその言葉を吐きたいのは大河の方だった。どうして、自分が死んだと知ってなお冷静でいられるのか。その神経を問いたい。
 大河は薄く息を吐き出した。魂までも抜けるようだった。

「俺を家まで運んだのはお前か?」
「ああ」
「何で……俺を気絶させたくせに。何で俺は……」
「危険だからだ」

(……危険?)

 何が危険だと言うのだろう。大河にとって今一番危険な存在は、犬飼であるというのに。

「意味が分からねえ」
「詳しくは知らない」
「はあ?」

 言っていることが滅茶苦茶だ。

「分かんねえのかよ。分かんねえのに、危険だって何で言えるんだよ」

 問いながら半ば、犬飼との会話は成立しないのではないかと大河は思い始めていた。
 何を訊いても「分からない」……。その言葉しか吐かない相手と、どうしてまともなコミュニケーションが取れるだろう。不明の一言ですべてが片付く筈がない。大河を納得させることなど出来る筈がない。
 この男は、初めから自分と意思の疎通を図る気はないのではないか。

(ムカつく……)

 幽霊を相手に腹を立てるなど初めての経験だ。

24/96 亡霊

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