密室アクアリウム
(8)
頭痛はいっこうに収まらず、加えて全身に倦怠感を覚え始めた。単純に風邪やウイルスではないと、根拠はないが大河には断言できた。
電車を降りて、犬飼とふたり自宅まで歩く。最初痛みに襲われた時は立っていられないほどだったので、犬飼から気づかうような視線を絶えず感じた。
日中は天気もよく明るい青色をしていた空も、時間の経過とともに暗さを増し、住宅地全体が色彩を失っている。中途半端に溶け残った雪も、道路の端で土砂を受けて茶色く汚れている。
胸がざわめく。水族館で頭痛とともに流れ込んできた過去のイメージがこびりついて離れない。
「仲宗根……」
横目で隣を見やると、目の奥がツキリと痛む。これ以上心配されるのは煩わしいが、痛みに我慢できずに顔を顰めてしまう。
「平気だって言ってんだろ。帰って寝りゃよくなる」
多分、よくはならない。ただの体調不良ではないから。そう確信していても、大河には頓着しない振りをして強がることしかできなかった。たとえどれだけ犬飼を心配させたって改善しない。頭の中からあの恐怖を払拭しない限りは。
「……突然だった。ただの頭痛じゃないだろ」
大河に寄り添うように歩きながら、犬飼は軽く息を吐いた。
「何か見たのか」
鋭い指摘だった。大河は犬飼を一瞥し、渇いた下唇を無意識に舐める。
犬飼の言う「何か」が指すものは決まっている。わざわざ言葉にして表さなくても、ふたりとも知っていた。
「……別に、奴を見た訳じゃねえ」
最も恐れる、そのものを目にしたら、大河はとても正気ではいられないだろう。
かわりに瞼の裏に見たものは、過去だ。
「柱の水槽の下に、死んだクラゲが沈んでた。それを見たら、思い出したんだ。水槽の中に押し付けられて死んだ――あいつ」
平気だ、の一点張りで通すつもりだったのに、知らずと口から零れ落ちる。犬飼は怪訝そうに大河を見つめたままだった。
犬飼は、大河が過去に何をしたのかを知らない。大河とあのウサギとの関わりを知らない。大河自身しばらくわからなかった。どうして得体の知れない着ぐるみに追い詰められ、命の危機に晒されているのか。
小学校の隅のフェンスや、理科室の独特の臭い、自分を囲む子どもたち、その笑い声、濁ったメダカの水槽。そういったものを夢に見て気づかされた。
これまでの、たった十七年の人生の中できっと最悪の出来事。考えないように、意識に浮上させないように頭から掻き消していた。
あの日から、大河は人と関わるのをやめた。
「俺が殺したんだ」
自分で言った言葉が、深く突き刺さる。
「小学生の時、グループのリーダーに言われて、学校で飼ってたウサギを理科室にあった魚の水槽に入れた。周りは面白がってた。ウサギが水槽の中で苦しんでもがくのを見て笑ってた」
子どもだった。自分より小さな命を痛めつけて楽しむ、純粋な生き物。
「ウサギは死んだ」
遊びでやったことだとしても、子どもだからという理由は免罪符にはならなかった。命を奪うことは酷く重い行為なのだと、その時に知った。
「親も来て大問題になったけど……呼び出されて説教されたのは俺だけで、俺に命令した奴も他の奴も知らないふりだ。俺ひとりがやったことになった。怒られたことなんかどうでもいい。きついのはその後だった」
何となくわかるだろ、と犬飼を見やる。黙って耳を傾けていた。
「ガキってのは容赦ねえから、俺は犯罪者扱いだ。無視もいじめにも遭った。俺の肩を持つ奴なんていない。親も、特に父親なんかは。俺も誰も信じないし、ずっとひとりだった」
その後にひねくれ、現在のように育ったのは容易に想像できることだろう。
誰かを信じても裏切られることを、大人ですら信用してくれないことを恐れて、大河は殻に閉じこもった。
「それが、殺した代償だと思ってた。……けど、違うらしい」
大河は孤独を抱えながら何年も過ごしたが、それだけで終わりにはならないようだった。
修学旅行で訪れたテーマパークで着ぐるみに会った。それ以来、怪奇現象に精神を苛まれ、命を何度も奪われかけ、死を感じ取った。
過去に水槽の中で溺死させたウサギと、今も大河を苦しめるウサギの亡霊とが繋がるとは思いもよらなかった。
「何で今になって出て来たのかは知らねえが、俺が殺したあのウサギは俺を赦さない。多分、俺が死ぬまで」
大河の命が尽きるまで、きっと追い詰めるだろう。肉体的にも精神的にも憔悴し力が果てたところで、殺されるだろう。
「あいつがいる限り――というか、俺があいつの存在に囚われてる限り、俺はこのままだ。この状況から抜け出せない。解決するために何をしたらいいのかも……わかんねえんだよ。自分で犯した罪に、どんな責任を負って、どんな代償を払えばいいのか」
何年も目を背け、記憶に蓋をして意識の底に閉じ込めていた。
しかし、今度ばかりは逃げる訳にはいかない。相手も、待ってはくれないのだから。
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