密室アクアリウム

(7)

 頭が割れそうだ。目の奥も、こめかみも、きりきりと痛んで視界が暗くなる。立っていられなくなって膝を折ると、柱についた掌が硝子を滑る。

「仲宗根」

 犬飼の声が、靄がかかったように聞こえづらい。固く目を閉じて痛みをやり過ごそうとすると、甲高い耳鳴りが聞こえる。

「っ……」

 背中に手を添える犬飼に、大丈夫だと言おうとして声が出ないことに気づく。息を送り込んでも喉元でつっかえて音にならない。は、は、と乾いた音だけが漏れる。こめかみに脂汗が伝っている。

 脳裏に、記憶に新しく柱の水底で沈むクラゲの光景が浮かぶ。ぴくりともしないそれを静かに見つめていると透明の水が底の方から溝のように濁り始め、やがて硝子の表面にドブのような緑が疎らに広がった。小さな魚が左右上下に忙しなく泳ぎ、こちらとの境界にぶつかってもひれを動かすのをやめない。
 クラゲは、もっと大きな白い生き物に変わっていった。水の中で生えた藻がその小さな足に絡まり、水中でもがくのに従って真っ白な毛が波打つ。水槽の端から水が溢れ出てリノリウムの床を濡らす。
 黒い目が、大河を見る。
 水面に立った波が収まると、白い生き物がぷかりと浮いてくる。冷たくなった身体は汚れて、息をしていない。



「仲宗根」

 耳鳴りを遮って犬飼の声が頭の中に何度も痛みを伴って響き渡ったが、彼の声音は決して不快ではなかった。恐る恐る目を開けると、額から下りてきた汗が睫毛を伝って目の中に入って沁みた。

「仲宗根、帰ろう」

 犬飼の温かい手は大河の腕を掴み、自身の肩へと回そうとしたが、大河はそれを拒んで柱に手をつきながら自ら立ち上がった。膝や腿の筋肉が悲鳴を上げる。異常に速く脈打つ自分の心臓の音が姦しく頭の中をガンガンと叩いているが、先程より引いた痛みは耐えられない程ではなかった。

「帰ろう」
「折角……来たのに」
 
 ようやく出した声は酷く掠れ覇気がなく、自分でも驚いたほどだった。

「いいんだ。具合が悪いなら出よう。ひとりで歩けるか」

 大河は重い頭をようやっと上下させる。

(また……出てくんのかよ……)

 もう脅かされることはないのだと思った。この先、犬飼と一緒にいれば何も恐れる必要はないのだと。曇天の下の公園で、腫れるほど全身を殴られ、肉が見えるほどいたぶられたのを最後に、恐ろしい白いものの姿は見ていなかった。
 何度と殺したそれが、大河の頭の中で再生される。小学校の薄暗く湿った理科室、濁った水の中で暴れる生き物。初めて生き物の命を奪った光景が蘇る。

 あの日、一匹のウサギを殺した。すべてはそこから始まったのだと理解できる。
 これ以上、自分の人生に入り込まないで欲しい。そう望むのは自分勝手で横暴だということも知っていたが、得体の知れない何かに追い立てられ、恐怖し、自分を見失うのはもう十分なのだ。二度とご免だ。
 普通になりたい。普通の日々を送りたい。望むのは、たったそれだけだ。
 ――それを手に入れるためには、どんな責任を負えばいいのだろう。

「……仲宗根?」

 覗き込む犬飼の視線。大丈夫だと今度こそ告げて、歩き出す。地面に踵をつける度に、歩行の振動で頭と胸の奥がキリキリと痛んだ。

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