密室アクアリウム

(6)

 一つのフロアに、いくつもの硝子の柱が立っている。柱は大河たちよりも少し背が高いくらいで、等間隔を置いて点在していた。その柱の中を、透明なクラゲがふわふわと飛んでいる。
 同じフロアに他に客はおらず、大河は思い切って口を開いた。

「……お前、楽しい?」

 正面の水槽に映った犬飼の顔が、ゆっくりと大河の方を向く。大河は一定のリズムで水面の方へ上がってゆくクラゲを半透明な自分の顔越しに見つめたまま、その視線を享受していた。

「何でそんなことを聞くんだ」
「そりゃ、お前……」

 折角遊びにきたのに犬飼は普段の調子で、大河がふと顔を盗み見るとやはり無表情で、とても楽しそうには見えない。それが彼の通常なので退屈を感じている訳ではないのだろうが、隣を歩いている身としては良い気分はしない。

「つまんなそうな顔してるし」

 今日の行先を決めたのは大河で、言ってみれば大河の考えたプランだ。楽しくなさそうな顔を見せられると選択を誤ったかと不安になってくるというものだ。

「楽しいよ」
「だったらそれらしい顔すればいいだろ」
「……やり方がわからない」
「やり方」

 やり方も何も、感じたことを顔に出せばいいだけの話だ。
 しかし口では簡単に言えても、実際にするには非常に難易度の高いことだと大河自身も知っている。怒りや不快感を露骨に表すのは得意だが、それ以外はどうも苦手だ。

「猶予が欲しい」

 犬飼が真剣が眼差しを向けてくる。何もそこまで真面目に受け取ることもないが、犬飼の反応が面白いので大河は「練習しろよ」と言っておいた。

「でも楽しいのは本当だ。仲宗根と一緒なら、何でも」
「……そうかよ」

 あまりもサラリと重要なことを言うものだから、どう返したらいいのかわからない。まさか「俺も」とは素直に言うこともできないし、大河は閉口した。
 この間をどう処理しようかと悩んでいると、気になっていたことを口にした。

「そう言えば、何で出かけようなんて思ったんだ」

 朝の冷えて澄みきった空気の中、突然の提案だった。犬飼が自ら言うとは思わなかったから、正直意外だったのだ。

「遊びに行くとか、お前は興味ねえと思ってた」
「まあ、興味はないな」
「ねえのかよ。じゃあ何で」
「思い出を作ろうと思って」

 遮って言った犬飼の言葉はいつもの素っ気ない語調だったが、大河は思い出という言葉を反芻した。
 思い出。いつの時代も、自分には存在しなかった。
 その時を、いつも自分の身を守るように生きるだけだった。

「仲宗根といられるなら別にどこでも、家でも、何もしなくてもそれでよかった。けど、何か特別なものが欲しいと思ったから」

 ふたりとも水槽で踊るクラゲを惰性で見つめながら、何もせずにその場に佇んでいた。傍から見れば、高校生がひとり水槽の前でぼうっと突っ立って不審かもしれないが、大河は気にしない。黙って抑揚のない言葉に耳を傾ける。

「自分のためでもあるけど、仲宗根のためにも」
「……俺かよ」
「仲宗根も、あんまり遊んだりしないだろ」
「どうせ友達いねえからな」
「じゃあ、今日が記憶に残る」

 硝子に映る犬飼の顔が「そうだろ」と言っているように見えた。大河は頷くかわりに、繋いでいた手を強く握り締めた。
 犬飼が初めて遊びに来たというこの一回、大河にとっても、犬飼と経験した一回が一生の記憶に残るような気がする。きっと大河と犬飼以外は誰も知らない、特別な日だ。

「ああ、覚えてるよ、ずっと」

 今日の日も、これまでの日も。死んだ筈の犬飼に夕方の教室で会った時から、守ってもらったことも、酷い言葉をぶつけたことも、肌を合わせたことも、きっと大河はすべて忘れないだろう。大河と同じように不器用で孤独な男の存在は、記憶の奥に強烈にこびりついて、残っていく。

 犬飼もそうだろうか。大河と過ごした日々の記憶を持って、ずっと一緒に――それとも、どこかへ行くだろうか。
 不意に先のことを考えてしまって心臓がふわりと浮いた。柱の中で揺蕩うクラゲのように。心のざわつきから目を逸らそうと白く透明な生き物を見つめていると、水槽の底に沈んだものが目に入った。
 同じ空間を泳ぐ同士と同じ大きさの、クラゲだ。透き通って綺麗に光るクラゲが、水底に落ちたまま動かない。死んでいるのだろうか。そう思った途端、頭に鋭い痛みが走った。

 脳の内側から金槌で叩かれているような、激しい痛みだった。片手で顔を覆って俯くと、異変に気づいた犬飼が大河の名前を呼んだ。

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