密室アクアリウム
(3)
来週末帰ると、メールで母親に伝える。返信はすぐに届いた。気をつけて来てね、と一文。
「何しに行くんだ」
ソファで歯磨きをしながら後を振り向けば、犬飼が画面を覗き込むようにして見ている。
「ひんろのははし」
理解したのか、そうでないのか、犬飼は無言で大河の隣に座ると「俺も行っていいか」と尋ねてきた。口内の泡が零れてしまいそうなので、無言で頷く。来てもいい、というより、四六時中どこへ行くにも一緒なのだから、当然ついてくるものだと大河は思っていた。
うがいをしに洗面所へ行く。午後二時という中途半端な時間に歯磨きをしたのは、これから外出するからだった。
暦上、今日は平日だが、学校は午前中に授業があったのみで、午後からは休みだった。全教員が参加する職員会議があるらしい。
外は雪も降っておらず、天気がいい。温かそうな光が差しており、まさにお出かけ日和だ。
リビングへ戻れば、犬飼は準備万端の状態で待っていた。準備も何も、犬飼には必要ないことだが。ソファに置いていた携帯電話と財布をポケットに突っ込み、家を出ようとしたところで、大河は立ち止まった。
振り返り、玄関に立つ犬飼を見る。無遠慮に凝視していると、犬飼がようやく「どうした」と聞いてくれた。
今までまったく意識もしなかったことだが――やはり、おかしいだろう。
「お前、制服で出かけんのかよ」
犬飼は、そんなこと聞かれると思っていなかったという風に立ち尽くしていた。
皺ひとつない白いシャツに、冬用のブレザー。長い脚を覆うスラックス。焦げ茶色のローファー。犬飼の服装はいつも同じだ。
「遊びに行くのに、制服?」
「……俺は普通の人間には見えてない」
「知ってるっての。そういう問題じゃねえんだよ」
周囲に見えていないから、幽霊だから、格好は何でも構わないだろう、という論点ではない。
「俺には見えてる」
「……」
「俺は私服だし。制服の奴と歩くの何か違和感あんだけど」
そう主張すれば、別に犬飼も制服姿でいたい理由もある訳でなし、簡単に「わかった」と頷いた。
「それで、俺はどうすればいいんだ」
「不思議な力で服出したりできねえの」
「無理だ」
「……じゃあ、俺の着れば」
犬飼の目が瞬いた。
ほとんど外出しない大河も、持っている服が多い訳ではない。必要最低限のものしか置いていない。そもそも、幽霊の犬飼が、普通の人間の大河の服を着ることができるのかも分からない……という問題は杞憂だったようで、犬飼は大河の目の前で着替えてみせた。
「何か……すげえ違和感」
「さっきと言ってることが違う」
制服姿でない犬飼というものは、とても新鮮だった。
淡い水色のシャツと、黒くて細身のパンツ。どちらも大河が着なくなった服だ。体格がさほど変わらないせいかサイズもぴったりだ。
飾らないシンプルな服装がよく似合う。普通に格好いいのが何だか癪だ。
「犬飼イコール制服ってイメージあったから、私服だと犬飼じゃねえみたいだな」
すらりと着こなす犬飼を眺めていると、居心地が悪いのか、らしくなく視線を泳がせる。
「仲宗根、行こう」
「あ……忘れてた」
「?」
クローゼットの奥を漁り、ポールにかかったハンガーを寄せて目当てのものを探す。一人暮らしを始める時に親が持たせてくれた紺色のダッフルコートはすぐに見つかった。
「外さみいから」
犬飼が寒さなど感じないことは知っているが、その肌触りの良いコートを正面から肩にかけてやる。
「平気だけど」
「いいから、着ろよ」
強い語調で諭せば、犬飼は肩にある大河の手に自分の手を重ねた。至近距離で犬飼と目が合う。顏が近づいて、キスされる、と目を瞑るが、唇に柔らかい感触はやってこなかった。
「!」
ちゅ、と目元に唇が落とされ、驚いて目を見開く。
「ありがとう」
静かな声で犬飼が囁く。
「今日、時間取ってくれて」
「……おう」
自然と笑みが零れる。早く行くぞ、と強引に犬飼の手を引いて部屋を出た。
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