KEIKOKU

(4)

 李瞬の邸に呼ばれてから七日が経過した。隊の演習に励み、執務をこなし、普段通りに義務を全うする。しかし頭の中はここ七日間、絶えず小難しい思考が回転している。
 ――出奔。
 何と恐ろしい響きだろう! そんな不義の行為など、一度たりとも考えたことはなかった。皇位に就く前は名士だった孫皓に仕えて早幾年か。高官に「売女の息子」と軽蔑されながらも、先王亡き後の孫皓を支えてきた。しかし家臣の努力も虚しく、年を重ねる度、君主はそれ以前の才気と徳を失っていった。何故だ……何故、殿は変わってしまわれたのか。
 頭の混乱から不毛なことしか考えられない。嘆いても、悔いても、現状は変わらぬのだ! だから行動するのだ。呉の再建を目指すのだ。その信条を持って努めていた李暁の心はとうとう、先日の李瞬の言葉で揺らいでしまう。


『兄上。私と共に、ここから抜け出すのです』
 武骨な手を包み込んだ、柔らかく、温かい掌。近年、ずっと冷風が吹き込んでいた李暁の乾いた心に暖を灯してくれた。……否、違う。あれはまやかしだ。李暁の心に付け込もうとする、あの狡猾な男の策だ。李暁は何度も己に言い聞かせる。
 竹簡を前に筆を握り締めた時、執務室の扉の外から男の声が届いた。


「李暁様。ご報告がございます」
「!」


 副官の典招宇であることは声で分かった。


「入れ」


「失礼します」と通る声で挨拶し、中に入ると典項は拱手した。武人らしい鋭い眼差しが李暁に向けられる。


「先程、孫皓様のお部屋を通りかかった時に耳に入れました。まだ公にはされていないお話ゆえ内密にお願いします」


 声の調子から重要な内容だということを悟る。自然と典項も声を潜めて話していた。扉の外の足音が完全に去るのを待ってから、典項は再び口を開いた。


「晋から使者が赴きました」
「何だと……」
「最終通告とみなすべきでしょう」


 李暁は無意識に椅子から立ち上がっていた。手元の竹簡が床に落ちてしまう。
 一月程前にも、晋から書が届いていた。表向きは呉との親交を保ったままで“あること”を要求するものなのだが、そのあることとは、即ち呉の降伏である。言葉は丁寧だが内容は至極乱暴なものであった。
 連日、軍議が開かれた。降伏するか、否か。晋は強大だ。強大で狡猾で、到底、今の呉が適う相手ではない。孫皓は降伏を選んだ。孫皓の動向を気にしてばかりの臆病な文官、宦官たちも降伏を主張した。最初は開戦を説いていた武官も、日が経つにつれ、降伏の意見に傾くようになった。
 そこで孤立したのが李暁である。武官の中には晋への対抗を決心したものの止むを得ず降伏を選んだ者もいることは分かっていた。しかし彼らは、李暁の庇護など一切せず、寧ろ拍車を掛けるように李暁を詰った。


『目を覚ませ、青二才』『立派なのは家柄だけか! その家も、母親が売女ゆえに、更に息子も阿呆では顔に泥を塗られたと思っているに違いない。将軍がこれなら、部下も部下なのだろうな』
 己のことは兎も角、家や部下を貶されるのは耐えられなかった。度重なる侮辱に、李暁は一人の文官相手に無礼を働いた。公衆の面前で顔面を殴ってしまったのだ。
 故に、李暁は牢に入れられた。最悪の事態に陥るまで李暁は開戦を心に決めている。それなのに仕官する者の殆どは、母国を敵国に売ろうとしている。
 しかしまだ、正式に降伏が決定した訳ではなかった。裏で何かが蠢いているようで、上も決めかねている。ぐずぐずしている間に、再び使者が――最終通告が届いたという訳だ。


「これでお決めになるのだろうな、きっと」
「急がないと晋が攻め込んでくる可能性がありますからね」
「……招宇」


 李暁は静かな声で典項の字を呼んだ。この男は信頼に足る男だ。こんな情けない上官に、長年つき従ってくれた堅実な副官。次の言葉を発するまでに、李暁の緊張は徐々に高まっていた。


「例えばの話だ。話半分で聞いて欲しい」
「…何でしょう」
「もし、俺が国を出ると言ったら、お前はどうする?」


 心臓が喧しく動いていた。典項との距離をものともせずに伝わってしまいそうな程、大きく響いていた。
 暫くの間、沈黙が続く。典項の表情は読めない。
 上に報告すると言うだろうか。それとも、今この場で上官を切り捨ててしまうと言うだろうか。不義を決して許さない堅実な副官なら、どちらもあり得る。


「私は」


 次に続く言葉を待つ。


「私は何も致しません。李暁様がお決めになったことに異論を唱えるつもりはありません。私はただ、私に何かが起こるまで黙っているでしょう。李暁様に命令されればその通りに動くでしょう。……飽くまで例えばの話ですが」


 言い終えると、部屋が沈黙に包まれる。
 堅実な副官の回答は“不動”であった。不動、そして順応。李暁は驚いて男を見た。偽りは口にしない男だ。
 ――そうか。そうなのか。
 まったく予想していなかった答えだった。しかし、彼らしいと言えば……彼らしい。
 暫く何も言わずにいると、典項は「失礼します」と再び拱手して出て行った。


「……そうか」


 出奔することをずっと不義だと信じていた。一般論で言えば確かに不義には違いないのだろうが、既にこの国は自分の愛した呉ではない。愛した呉は、ずっと昔に滅んでいた。李暁は過去の遺跡に縋りついていただけなのかもしれない。


「……父上、母上。申し訳ありません」


 今は亡き両親に謝罪する。面倒を掛けてばかりの息子の気持ちは天に届いただろうか。
 李暁は書き途中であった竹簡を乱雑に纏めると、急ぎ足で執務室を出た。向かう先は李瞬の私邸だった。

5/5 起章

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