KEIKOKU

(3)

「人払いをしてありますのでご安心下さい、兄上」


 私室に入るなり主の開口一番に、李暁は再び首を傾げることになった。一体、何に安心しろと言うのだ。
 そして二度目。漸く李暁の姿を見た李瞬は口元に涼やかな笑みを浮かべる。


「何がおかしい?」
「いえ。先程とは随分とご様子が違うもので。髭がなくなると全く印象が変わりますね」


 感嘆とも皮肉とも受け取れる。李暁は苦笑する他なかった。三日も牢に閉じこもり、口周りには中途半端に無精髭が生えていたが、先刻、李瞬の従者に綺麗に剃られた。髪も結って貰った。衣も真新しい生地で、先刻までの湿ったものとは全然違う。不快感は一切ない。


「こちらへ」


 弟に導かれたのは外の景色が臨める窓際だった。床に小さな卓が一台。その上には酒瓶。李暁はその場に胡坐をかいて座った。李瞬も卓を挟んで反対側に腰を下ろす。


「それで、話というのは」


 李瞬が小振りの杯に酒を注いでいる。悠長な様子に眉を寄せて辛抱強く待つと、目の前に酒が並々と注がれた杯が置かれた。


「毒など入っていないだろうな」
「まさか。兄上のお命を奪う所以などありません」


 弟と酒盛りをするのは、この約三十年の人生の中で初めてだった。突然すぎる誘いに不信感を抱いていたが、毒云々は冗談だ。


「ご覧なさい」


 李瞬が窓の外を指さす。それに従って目線を遣ると、外界は完全な橙色に染まっていた。


「もうじき日が落ちます。そうすれば辺りは真っ暗になって、夜の訪れです。そして暁、夜明けです。また日が昇ります」


 橙色の円が山の影に隠れようとしている。完全に姿を消すまであと少し。世界を刺す光が眩しく、李暁は目を細めた。


「物事には全て、循環というものが存在します。いつまでも栄華を極めているのではありません。それは人の世にも言えること」
「つまり?」


 李暁は杯の中の酒を一息に乾した。酒の成分が容赦なく喉を焼き、胃へと落ちていく。夕日がまた少し動いた。


「今こそが時機なのです、兄上」
「……何のだ」
「叛旗を翻すのです」


 李暁は息を飲んだ。
 固まること数秒。目の前の弟はじっと自分を凝視している。李暁も凝視するほかない。
 ――今、この男は何と言った?


「貴様……自分が何を口にしたか、分かっているのか」


 恐ろしく低い声が出た。
 信じられなかった。弟の言葉の内容が。


「勿論です。……出奔しましょう」


 ガシャン。陶器の割れる耳障りな音が部屋中に響いた。李暁が卓に叩き付けた杯が発信源だった。粉々になった陶器の破片が床に散らばり、夕日が反射して光っている。


「李瞬、己が育った国に、恩を仇で返すつもりか!」


 気付けば、怒りに震えた拳が真っ赤な血に塗れている。破片で切ったようだ。
 激情に固く握り締めると、切れた掌から鮮血が滴り落ち、木の卓に溜まりを作っている。
 李暁は、李瞬が許せなかった。どういう男なのか、どういう信念の持ち主なのか、ろくに知りはしないが、同じ呉で育った者として、今の発言は許されざるものであった。
 肥沃な大地で育ち、そして政や軍事に貢献して生きてきた中で、自分たちはこの“呉”という国に命を与えられ過ごしてきたのだ。


「貴様の発言は母国に対する冒涜だ! 何故、そのような戯言を……! 今すぐ撤回しろ」


 彼に偉そうなことを言える立場ではないことは知っていたが、今のは冗談だと訂正して欲しかった。
 まさか。呉の聡明な軍師が。そのようなことを口にする筈がない。


「戯言ではありません。私は本気です。兄上……共に国を出ましょう」
「……!」


 頭を抱えた。身体中から血の気が引いて行くようだった。
 驚愕と激憤。それらが混じり合って、頭の中に混乱を招いている。


「密告したいのであれば、すればよいでしょう。私は構いませんよ。兄上が、殿と同じ凡愚であっても」
「何だと……俺のことはどうとでも言え。貴様、殿を、孫皓様を暗君だと?」
「そうです。あのような、君主の素質の欠片もないような男にはもうついて行けません」
「国だけではなく、君主さえも冒涜するか……!」
「本当は兄上もお気づきになっているのでしょう? このままでは、呉の国は無駄に滅びるだけだと」
「――っ」


 右手が熱い。
 核心を突かれたような気分だった。否、実際そうだった。喉が絞められたように苦しくなる。言い返せない。
 確かに、李瞬の言う通りなのかもしれない。この国は、代々の先王たちが築いた国は、このままでは滅亡を免れない……。その一因に、君主の孫皓の非才もあった。


「だからと言って、俺に呉を裏切れと言うのか……」
「裏切るという意味ではありません。今の呉は、以前の温かい呉ではありません。もう、私たちが愛した呉ではないのです。君主の暴虐と腐敗した政治に民の人心は離れつつある……。もはやかつての呉は何処にもいない。既に死んだのだ!」


 どんな時でも冷めきっていた李瞬の眼が、己に課された試練の炎に燃えているように見えた。その熱意は恐ろしい程に伝わってくる。彼も呉を愛していたには違いない。彼を変えてしまったのは、すっかり腐敗した呉だった。
 李瞬は李暁の傷ついた右手をそっと手に取る。血が付着しても怯む様子はなかった。


「兄上。私と共に、ここから抜け出すのです」
「何故……俺なんだ。俺とお前は兄弟だが、今までずっと他人も同然だったろう。俺に利用価値でも見出したのか」


 李瞬が手をぎゅっと握り締める。彼の手は温かで柔らかく、武人である自分の手とは全く違う素材で出来ているようだった。


「兄上なら、聡明な兄上なら私の考えをきっと理解して下さると思ったのです。他の者は孫皓様を恐れ二つ返事に賛同するばかりで、この国を変える存在にはなりません」
「お前も此度の軍議では孫皓様に同意を示していた」
「まさか。表面上だけです。爺共に目をつけられては動きづらくなりますから」
「俺はお前のように賢くもないし、高官でもない。一介の武人だ」
「殿や周りの文官に不満を抱いていたのは確かでしょう」


 徐々に絆されていた。漸く、自分が危険な話をしているのに気づく。
 ――果たして、この男の話の相手をしていていいものか。
 そうは思っても、もはや断って逃げ出す隙はない。


「兄上!」
「……少し、考えさせてくれ」


 まだ、弟――否、李瞬という男を信用していいのか判断出来ない。もしかしたら、高官と手を組んで自分を陥れてしまおうという罠なのかもしれぬ。断定は出来ないが、その線も疑えなくはない。他人同然であった血縁者が突然、接触を図ってきたのだから。


「他言はせぬ。安心しろ」


 李暁は己の右手を掴む男の手を半ば乱暴に解いて、立ち上がった。辺りに陶器の破片が散らばっている。後で李瞬の使用人が後処理をしてくれるだろう。


「必ず、お返事を」


 彼の手は真っ赤に染まっている。夕日よりも赤い。そろそろ日が沈んで夜が訪れるだろう。
 熱意が籠った瞳が離れない思考をどうにか無視して、李暁は足早に弟の邸を去った。

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