短編

(1)

 その徐恵(ジョケイ)という男は叛逆罪の疑いで捕えられての三日後、すなわち本日午の刻、都の人が多く集まる広場で刑の処すところとなるらしい。
 事の成行きは至って単純であり、徐恵の弟子であった男が悩みに悩んだ挙句、彼が懇意にしていた宮廷の高官に密告したという話である。徐恵の叛意が他に呈するに及んだのは、その弟子が師の書斎で敵国からの密書を発見したことに始まる。

 徐恵は兵法家である。数年前までは全国を渡り歩いて仕官する主を探し求めていたが、彼の提唱する一案がその国で採用されてからというもの、優秀な兵法家は遂に今後一生のものとなり得る国に安住することに決めた。
 彼の練り出した戦法で勝利の勝ち鬨を上げること十数度。彼の手にかかれば勝率は九分に限りなく近くなるとは誰しもが口にする程の、近年稀に見る賢人であった。
 その彼が今縄で捕えられ、民の目に晒される広場にて首が刎ねられるのを待っているという。

 一方、ここにも一人の男がいた。名を何嬰(カエイ)と言い、半裸に剥かれ後ろ手に縄により縛られ身動きの自由を剥奪された者である。彼もまた彼自身の刑の執行を待つ身であったが、刑を司る官吏の前に引かれたかと思うと驚くべきことを告げられた。

「お前が徐恵の首を刎ねよ。さすればお前の刑は取り消し、後に下級役人として雇ってやろう」と。

「……何の企みか」

 光のない隻眼で役人を睨みつければ、相手の男は至極愉快気にくつくつと笑う。

「何の企みもない。上の方々はお前の才が惜しいとおっしゃっている。たかだかあの男のために諫言したのみで宮刑に処せられるのはお前も馬鹿らしいと思うだろう?」

 何嬰は憎々しげに唇を噛むことしか出来なかった。
 何嬰は元々は幾つもの武勲を立てた屈指の猛将であったが、戦場で片目を失ってからは文字を扱う人として国に仕え、史書や暦の編纂に携わっていた。故に、同じ文の分野で有名な徐恵の存在は、姿こそ見たことはないものの知ってはいた。どうやら奇才の持ち主だと言うではないか。その男が広場で処刑されるらしい。真実かどうかも分からぬ、筆跡も分からぬ、本当に敵国のものかも検証されておらぬ密書の存在で。こんな酷い話があって堪るかと、義に厚い何嬰は帝に直接訴えた。
「一小人の証言が、どうして全く正しいと言えよう。かの男の策によって支配の及ぶ領域を広げること甚だしく、それなのに何故いとも簡単に切り捨てようなどというお考えが浮かびなさるのか。帝は人の使い方というものをまるきり理解しておられない」と朗々と申し上げた。
 激昂した帝が何嬰に言い渡したのは――宮刑。男として最も屈辱的な、去勢の刑である。

「当然、馬鹿馬鹿しいと思わない訳がない。俺を惜しむならば最初から帝に諫言申し上げてこのような事態になるのを防げばよかったろうに。俺の周りは佞臣ばかりか」
「ふん、あの何嬰将軍が腐刑というのもなかなか面白い話であろう? 惜しむ反面、宦官と成り果てたお前の木偶姿を目にするのも気味がいいと言う者もいる」
「――は、下らん」

 何嬰は地面に血混じりの唾を吐き、再び男を見上げた。地に突いた膝は冷たく、縛られた手首は痛い。そしてこれから待ち受けるであろう辱めを考えれば、首肯することなど容易い。

「うむ、ならば早速」

 何嬰の縄を解けという一言で身体は自由になり得た。左右から腕を掴まれ、何処かへと引き摺られてゆく。

 何嬰は死刑を予想していた。しかし課せられたのは死よりも重い恥辱であった。死を覚悟して進言したものの、宮刑となれば話は全く別である。義のために口にした言葉さえも、恥辱のためなら容易に撤回できよう。戦場以外の場所にて罪なき人一人殺すことなど実に容易い。これで俺の罪が消されるのであれば、より一層、容易い――。
 そうは思っても、信念の前に屈したことは少なからず、何嬰に罪悪と背徳の意識を植え付けていた。


 太陽の位置は遥か高く、普段は明るい活気に溢れる都の広場を照りつけていた。民衆が集まり、彼らの頭頂部を焦がすが如く降り注ぐ陽光。
 原因はそればかりでなく、人々の胸に押し寄せる緊張も助長して皆の額に玉の汗を作る。

「嗚呼、何と恐ろしいことが起こってしまったのか。あの徐恵様が敵国と通じている筈がないのに……」
「私ども民がこうして平穏の中で暮らしていられるのは徐恵様のおかげであるのにも関わらず!」
「しいっ、お黙りよ。奴らに聞かれちゃこちらの首も飛ぼう。そればかりか車裂きにでも遭うかもしれん……」

 こういった悲嘆に暮れた会話がそこかしこからさざめきとなって聞こえてくる。何嬰は今一度、額に巻いた頭巾の結びを強くした。頭や額の汗を吸い込み、ぐしゃりと濡れているものの気にしてはいられない。
 徐恵は随分と民たちに慕われていたようだった。聞くに、民に課された租税を軽くするよう帝に進言申し上げたのは彼だという。通じているのは兵法ばかりでなく徳にもであると、そのためか民からの感謝は厚いのだろう。その、困窮を救ってくれた男が市中に引き出され首を刎ねられるというのだから、民も黙って見ていられないに違いない。

 じきに男が縄に引かれてきた。馬に跨る役人に縄の端を持たれ、急かすように背後の役人に背中を蹴られる。今、転倒した彼こそが徐恵であった。
 予期せぬであろう罪のためか疲労困憊した様子が見てとれ、信念を失った人形のようである。遠目にて面立ちこそ見て取れぬが、当然ながら文官の冠も戴かず、長い黒髪は荒んで汚れていた。

 黙って傍観していると、先刻に何嬰の縄を解いた男から何故か大鉈を渡された。訝しげに睥睨すれば、顎でしゃくって行列を差す。木台が運び出されていた。

「斬首刑じゃなかったのか。何故に台など……必要ないだろうが?」
「腰斬刑に変更のことよ。お前には徐恵の首でなく、胴を切り離して貰おう」
「……話が違うじゃねえか」
「おや、怖気づいたか。天下の何嬰将軍が……」

 ふ、と嘲笑する男の存在は確かに何嬰の気に障ったことは間違いない。何にせよ馬鹿にされたのは気に食わないのだ、たかが腰斬、首を刎ねるより些か容易にはいかぬという具合で――何嬰が執行人を辞退するなどということは有り得ない。さすれば何嬰も刑に処されてしまう。渡された大鉈を強く握り、罪人を台へ連れるというところで何嬰は移動を始めた。

 集まる民衆の視線は悉く何嬰の身を焼くようだった。しかしその本質は憎悪や憤慨ではなく、徐恵に向けるものと同じ憐憫であった。民は、何嬰が帝に諫言して宮刑を言い渡されたのを知っている。故に、刑を逃れるために執行人の役を背負っていると知っている。何嬰とて、かつては国のために尽力した武人である。たとい保身のために賢臣に刃を振り下ろすことになろうとも、一概に石を投げるような輩はいなかった。
 何嬰は恥じた。受ける筈であった恥辱のために、たとい面識のない者でも殺してしまえると決心した自分が愚かしく感じた。恥辱のための恥辱など聞いて滑稽である。乾燥し砂埃が立ち上がる地面を一歩一歩踏み進める度に、猛暑ではない何かから汗が噴き出るのが分かった。

 手足を縛られた罪人は木製の台の上に、肌着一枚で横臥していた。彼に待ち受ける死の臭いを感じ取ってか、周囲を蠅が飛び回り、空では数羽の鴉が旋回する。徐恵の血肉を待ちわびているようだ。
 何嬰は男の横に立った。男は白い布で目隠しをされており、彼の目が絶望に淀んでいるのかは誰にも知りえない。何嬰は目隠しを取り去り、彼の面を初めて見――絶句した。
 酷い衝撃が脳に生じた。重量剣の柄で殴られたような鈍い衝撃だった。
 渇ききって痛みさえ訴える喉の奥で振り絞った声は酷く掠れていたが、

「……阿恵……」※

 と、そう呟くことが出来た。
 果たして罪人の方も何嬰同様に、萎んだ目を大きく見開いて驚愕の様子であった。そうして口で「嬰」という形を作った。

 そこからの何嬰の行動は龍の如く目を瞠る程の素早さだった。大鉈で徐恵の胴体を真っ二つに斬る、と見せかけ縄を切ると、彼を抱き起し木台から連れ出した。観衆にどよめきが走る。
 徐恵の手を握り、数人の官吏が高官を警護する方向へ疾走する。大鉈は既に捨て、懐から小刀を取り出すと高官目掛けて投げた。不意を突かれた男の喉元に刺さった刃と肉との間から勢いよく鮮血が吹き出し、男はそのまま落馬した。その周囲も、官吏と言えども警護するだけあって剣戟は出来るようだったが所詮は嗜み程度、何嬰の手にかかれば、人一人護りながらの交戦と雖も劣勢に陥ることなく、腰の剣を抜き一人二人と次々に斬り伏せると青毛の馬に乗り上げる。徐恵の腕を掴み引っ張り上げ、鐙で馬の腹を蹴った。主人ではない二人の男を背に乗せた馬は、人々を撥ねつけながら疾走した。

 広い都の道を走りながら、後方で大きく響き渡る鼓の音を聞く。続いて男たちの激しい怒号。通常より二倍の重量を背負った馬は疾走するともじきに疲弊し、これが精一杯でございますよと言わんばかりの可哀想な足取りで、せっせと走る。
 やがて二人を乗せた馬は追手が追いつくところとなった。

「何嬰よ! 貴様、宮刑などでは済まされんぞ!」

 振り返れば、栗毛に乗った武装姿の男。あっと思う間もなく男から矢が放たれ、何嬰の背中中央を射た。手綱を握る徐恵にも衝撃は通じたのだろうか、うっと低く呻いたが前を見据えたままである。そうしながら「嬰、嬰」と叫んだ。

 追手の馬は遂に右隣に並んだ。背を貫き流血させた矢に苦しみながらも何嬰は剣を握り締め、敵を見遣る。敵の獲物が槍でないだけ救われる思いだった。
 相手から繰り出される刃の先を払いのけ、打ち合うこと数合。渾身の力で相手の攻撃を払い隙を出させると、真横に薙ぎ払い男の首を飛ばした。

 傷を負ってもなお衰えぬ何嬰の戦ぶりに臆した男たちはもう追ってこない。馬はどこまでも走り抜けた。



※阿とは「〜ちゃん」の意。阿恵は「恵ちゃん」というニュアンスになります。

6/30 紅を負う

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