短編

(6)

 ピ、ピ、ピ、と断続的に響くアラームを止める。頭は重く、冷たい空気から逃れるように布団を被った。再び意識を沈ませようとしたが、侑吾はハッとして布団から顔を出した。寒い。
 ベッドの上で腕を伸ばす。自分の隣を確かめるが、人はいなかった。体温すら残っていない。
 昨日のは夢か。
 そう思ってしまいたいが、どう考えても現実だった。
 侑吾と話をしようと訪れた宗吾をベッドに倒し、抵抗しないのをいいことに無理やり抱いた。夢でしたように彼の身体を愛撫し、閉ざされた場所を開き、犯した。兄の痴態はまだ頭の奥で鮮やかに再生できる。
 そして気絶させた。その後は――。

「寝たのかよ俺……」

 しかも泣いた。涙を流す侑吾を、宗吾は優しく抱き締め優しい声で宥めてくれたのだ。その腕の中で侑吾は眠ったはずだった。
 クソ野郎、死ね、と胸中で何度も唱える。大失態だ。犯して気絶させた人間を放って意識を手放すなど。
 だが侑吾は安らかに熟睡できた。兄の胸は温かく、安心して眠ることができた。

 侑吾はのろのろとベッドから這い出て床に足をつけた。冷たい床を歩きながら階下に降りると、香ばしい匂いが漂ってくる。早く温かい部屋に入りたかったが、居間に入る戸の前で足を止めた。

 どんな顔をして会えばいい?
 子どものように泣きじゃくった手前、非常にバツが悪い。そもそも昨夜、自分が兄にしたことを考えると、優しく接してくれたのは異常だ。有り得ない。心の底では、本当は怒り狂っているかもしれない。あるいは軽蔑し、失望し、出て行けと言うかもしれない。お前なんか弟でも何でもないと。
 顔を合わせた時の相手の反応は何パターンでも思い浮かんだ。どれも最悪だ。それに対して侑吾はうまく対処できる自信がない。自分で行ったことに対して返ってきた結果に、取り乱してしまうかもしれない。
 そう思うと、ドアノブに手をかけても、回して引く勇気はまったく湧いてこない。
 ドアを開けて中に入った瞬間、自分たち兄弟は終わってしまうかもしれない。だったらドアを開けない方がいい。このまま、時が止まればいいのに――。

 軋んだ木の音が鳴る。

「あ」
「……え」

 開けたのは侑吾ではない。すでに制服姿の宗吾が戸口で立ち止まったまま、侑吾を見た。
 直視できない。どんな顔をしているかなんて知りたくない。
 何を言うか。あるいは殴られるか。想像すると恐ろしく、侑吾は身を硬くして突っ立ったままだった。

「何だ、起きてたのか。今ちょうど起こしに行くとこだった」
「ああ、……え?」

 寒いだろ、こっち来いと言いながら宗吾は中に戻る。その背中を見つめながら侑吾は呆然とした。
 何だそれは、と思わず口に出てしまう。
 身震いをし、侑吾は重い足を引き摺って居間へ入った。
 ダイニングテーブルの上にはすでに朝食が用意されている。今日はベーコンではなく、ウインナーだ。そして昨日の冷凍食品の残り。湯気の立つ味噌汁。
 おそるおそる近づけば「何だ、早く座れ」と急かされる。言う通りに席に着けば、腹の虫が鳴った。同じく正面に座った兄を俯きがちにチラリと見遣れば、箸をとって食べ始めた。

 何か言うことはないのだろうか。
 もし侑吾が宗吾だったら、怒鳴り散らしてやりたい言葉が山ほどある。罵り、殴りかかるかもしれない。
 侑吾は怖くて、朝食に手をつける気になれない。身じろぎひとつすることさえ躊躇う。
 テーブルの傷を見つめながら黙りこくり、時折、目線を上げて兄を見た。テレビの朝の情報番組を見ながら黙々と咀嚼している。
 まさか昨日のことを忘れた訳ではないだろう。身体をだいぶ酷使させた。疲れている筈だった。それなのに侑吾よりも早く起きていつも通り朝食を用意している。
 そもそも眠れたのだろうか。酷く扱われ、嗚咽する弟をあやし、そして勝手に寝入る弟を腕に抱いて、兄は寝ることができたのだろうか。考えると、項が冷えるような感じを覚える。
 せめて、何か言って欲しい。早く食え、とかではなくて、昨日のことに関して、何か。

「食わねえの?」
「あ……いや、食べる」

 いつもはまともに食べずに残し、兄の腹へ見送るのに、今日は兄の作った食事を残すのは躊躇われた。
 箸を手にとり、味噌汁を飲む。温かい。美味しい。兄の料理だ。
 しかし一口目以降、しっかりと味わう余裕などなかった。美味い筈の朝食は侑吾にとって紙だった。けれど食べなければならないような気がして、無心に咀嚼し、嚥下する。
 何度も視線を上げて宗吾の様子を窺うが、一度も目が合わない。兄の視線はテレビとテーブルを行き来する。その間、侑吾へ向くことはない。
 堪えきれず、侑吾は口を開いた。

「あの、兄貴。……昨日は」
「お前トイレ掃除忘れただろ。今日はちゃんとやれよ」

 侑吾に目線もくれず、言葉を遮って宗吾は言った。ああ、やるよ、と力なく返すが、兄の口からそういう言葉を聞きたい訳ではないのだ。

「昨日の夜のことなんだけど」

 ガタ、と椅子を引く音に掻き消される。食事を終えた宗吾は食器をシンクに置き、洗い始めた。

「悪い、話は学校から帰ってからでいいか?」

 普段の調子で兄の背中が語る。
 明らかに避けられている。目も合わない、話も聞かない。昨日のことについては話したくないと、兄の態度が露骨に示している。流石に侑吾も苛立ち始めた。

「今日もバイトで帰り遅いんじゃないのか?」

 少しの嫌味を込めて行ってやれば、兄は洗いものをしながら肩越しに侑吾を一瞥したが、すぐに逸らしてしまう。「ああ、そうだな」と小さく呟くのが聞こえた。
 侑吾は椅子を大きく引いて、食べ終わった後の食器をシンクに運んだ。隣に立つと、蛇口の水で食器をすすぐ手の動きがぎこちなく止まる。すかさず手首を掴むと、兄の肩が跳ねた。

「おい、何だ」
「兄貴こそ何なんだよ」
「俺?」
「その態度だよ。俺が昨日したこと、忘れたの?」

 宗吾の顔をしっかりと見据え強い語調で問えば、相手の目線が不安定に揺れる。
 違う。責めたい訳ではない。侑吾はただ――正直になって欲しいだけなのだ。

「いや、忘れる訳ないよな。忘れたんじゃなくて、忘れたいのか?」
「おい……手離せ」
「嫌だ」

 蛇口の水がシンクを叩く。耳障りな音を侑吾は静かに止めた。

「いつもみたいにはぐらかして、何もなかったことにする? 俺に、謝ることもさせないの?」
「はぐらかすつもりは……、ただ、お前が、思い出したくないんじゃないかって」
「また俺の話かよ。それは気遣ってるつもりか?」
「思い出して、お前は後悔するだろ」

 確かに一瞬、昨日の出来事が夢だったら思った。だが自分が兄を犯したことは紛れもない事実で、頭にこびりついて離れない記憶だ。
 忘れられたら楽かもしれない。けれど、そうしたくない。
 自分たちの関係が変わってしまうのは酷く恐ろしい。兄は今のように侑吾を恐れ、あるいは軽蔑するかもしれない。しかし自分の気持ちを通すためには、関係を変える必要があった。
 先程まで、自分たち兄弟は終わってしまうかもしれないと怯えていた自分自身はどこかへと去ってしまった。兄の態度がそうさせた。
 何もなかったことになんてしたくない。兄が自分の気持ちを受け入れなくても、兄弟の関係が壊れてしまっても、昨日起きた現実を受け止めなければならない。

「俺は忘れたくない。なかったことにしたら、俺たちは今まで通りやっていけるかもしれないけど、兄貴が好きだって気持ちを否定することになる。それは嫌なんだよ」

 宗吾の肩を掴み、正面から向き合うようにさせる。今日は学校で、考査の二日目で、まだ洗いものの途中だ。それでも話を止める訳にはいかない。

「兄貴はいつも俺のことばっかりだ。俺が思い出したくない? 俺がなかったことにしたいなら、そうするって言うのか? そんな気遣いなんていらない。あんた自身はどうなんだよ」
「侑吾」
「受け入れられないなら俺を罵って殴ればいい。何もなかったことにするなんて、絶対許さない」
「侑吾!」

 兄が声を荒げて名前を呼んだ。だが怒ってはいない。静謐な瞳で見つめ返してくる。今日初めて目が合った気がした。

「俺は……お前が苦しまないならそれでいいと思ってる」
「兄貴」
「聞けよ。昨日お前が俺を抱いて、そのことをお前が後悔するくらいなら、俺は忘れてやろうと思った。何事もなく、いつも通りに振る舞おうって。俺自身……別にお前のためじゃない、自分でも、なかったことにしようと思った」

 でもお前は、と絞り出すように宗吾は言った。

「なかったことにするなって言う。……自分勝手だろ」
「……え?」

 低く呟いた言葉に、侑吾はたじろいだ。

「お前は勝手だ。お前は俺のことが……兄貴としてじゃなく、好きだって言って、受け入れられないなら拒絶しろって言う。俺に、どうするか決めろって」
「……」
「いつから俺をそういう風に思ってたかは知らねえけど、言うだけ言って、ついでにやるだけやっといて、……お前はいいかもしれない。けど俺は? 俺は、昨日知ったばかりだ。昨日の今日で、俺に決めろって言うのか? まだ頭が混乱してんだよ、だから一度何事もなかったようにして、お前と離れようと思った。考える時間くらいよこせよ」

 兄の本音らしきものをぶつけられ、侑吾はどう反応していいのかわからなかった。渇いた唇を無意識に舐めながら、黙って兄の言葉を待っていた。

「お前が思うほど俺に余裕なんてねえよ。昨日のことだって頭にこびりついて離れねえ。お前の前だから、必死で平気な振りをしてる。さっき下りてきたお前の顔を見て俺は……いや、違う、何でもねえ。どうかしてる」
「兄貴」
「戸惑ってんだよ。どうしていいのかわからない。お前を拒絶するべきなのかもしれないけど、……そうしたくない」

 侑吾はその言葉に目を瞬かせた。そうしたくないとはどういうことだと、ぐるぐると思考する。
 宗吾は片手で顔を覆ってシンクに寄り掛かった。頭の中が収拾がつかず、当惑しているらしかった。

「兄貴、それって」
「わかんねえんだよ。俺がいちばん、わかんねえ」
「俺は」
「やめろ……話は終わりだ」

 ぶっきらぼうに言い放って、兄は侑吾の前からするりといなくなる。侑吾は咄嗟にその腕を掴み、背後から身体を抱き締めた。安心する温度と、匂い。いつも隣にあった。

「兄貴、……昨日は本当に、ごめん」
「……離せよ」

 拒絶するようなその言葉は、何故か震えている。

「好きなんだよ」

 腕を振り払われ、身体が離れていく。振り向きもせず、兄は言う。

「先に、行ってるからな。遅刻すんなよ」

 リビングのコートと鞄を手に、宗吾は慌ただしく出て行く。
 侑吾は見逃さなかった。玄関へのドアが閉まる瞬間、兄の首筋や耳が仄かに紅潮しているのを。
 今になって全身に動揺が走る。心臓の鼓動が速まっていくのを、服の上からぎゅっと握って押さえた。

「期待していいのかよ……?」

 そっと呟いた言葉を、兄は知らない。




End.

つづくかも?

30/30 手に入らないひと

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