短編

(3)

 最近、兄の帰りが遅い。
 遅くまで部活がある侑吾の方が後に帰宅するのが常だったが、大会も終わり比較的早く帰れるようになってから、夜、家に兄の姿を見ないことが一週間のうち半分以上であることに気づいた。
 弁当箱と水筒をシンクに置く。料理や洗いものなど、台所関係はすべて兄の担当であったが、最近は侑吾が自分で片づけるといった状況だ。
 ダイニングテーブルの上のメモ用紙には、乱雑な字が躍る。『遅くなる。冷凍室にグラタンがあるから先に食ってろ』と。学校から一度帰宅して、再びどこかへ出かけたのだろう。

 朝は兄が先に起きて、二人分の朝食と弁当を作っているところに、侑吾が慌ただしく下りて行き、慌ただしく食事をとり、兄よりも先に家を出る。学校では顔を合わせない。
 兄と一緒に夕食をとることも最近はしばらくない。少し前までは侑吾の帰りが遅いために宗吾が先に一人で夕食を済ませていた。今度は逆転して侑吾が先に一人で食べている。最後に二人でテーブルに座ってテレビを観ながら下らないことを言い合ったのはいつだろうか。

 冷凍室の扉を開けると、中に冷凍食品のグラタンが入っていた。一人分を取り出して、電子レンジで温める。二分も待てば、すぐに食べられる状態になった。
 手間など一切かからない、即席の食事。便利だが、兄の手料理ほど美味しくはない。

 既に夫を亡くした母が死んだのは一年半前、それからの家事の分担は料理が宗吾、掃除や洗濯は侑吾の役割だった。最初、兄の料理はとても口にできる代物ではなかったが、長くこなしているとレトルト食品よりも評価できるようになった。少しの嫌味を込めてそれを言えば、兄は自慢げに唇の端を吊り上げた。
 祖父母の代から住んでいた家だから幸いにローンは残されておらず、二人暮らしにしては広い家で何の気がかりもなく生活できている。親族であるおじやおばは遠方に住んでいるため滅多に訪れることはないが、母が死ぬ前から年に一度、正月にやってきては、珍しく大人数で食卓を囲み、家中が賑やかになる。
 母が死んだ後、おじから一緒に暮らさないかと提案があったが、辞退した。おじにも家庭があり、そこへ入り込むのは気が引けた。それに、ずっと暮らしてきたこの家を後にして遠方へ行きたいとは、宗吾も侑吾も思わなかった。二年も経てば宗吾は就職するし、育った家で二人で暮らすのだと決めたのだ。

 テレビの音声が虚空に響く。侑吾しかいないダイニング。仕事から帰ってきて忙しそうに家事をする母の姿はとうになく、最近では兄も帰りが遅い。家族が生活していた痕跡の残る家で、ひとり、肘をつきながら食べる夕食ほど虚しいものはない。

「……まっず」

 安っぽいクリームソースの味。冷凍食品は口に合わない。そんなことを兄に言おうものなら、贅沢だ、そこまで育ち良くないくせに、と一蹴されるに違いなかった。量が足りないからと炊飯器から茶碗に盛ったご飯を、白飯のまま口にかきこむ。

 兄は一体、どこで何をしているのだろう。
 侑吾と違って、部活をしている訳ではない。学校の、不良仲間とつるんで遊び歩いているのだろうか。だが今までそんな気配を感じたことは一度もなかった。部活が終わって自転車を飛ばして帰宅すれば、温かい食事とともに兄が待っていた。

「……彼女できたのかな」

 女、という選択肢が思い浮かんだ瞬間に、スプーンを持つ手が止まった。テレビから聞こえるタレントの笑い声が遠くで響いているのを、頭の隅でぼんやりと捉える。煩わしい。
 兄に彼女。いや、あんな粗暴で武骨な男に、恋人などできる筈がない。できてたまるか。付き合いのある連中は、せいぜい学校の、所謂不良仲間だけだ。彼女ができたとしても、大切にできるものか。

 だって、兄が大切にするのは弟の自分だけだ。温かい眼差しを注いでくれるのは自分だけだ。
 だが、その理由が「家族だから」という至極単純なものでしかないことも、侑吾は知っている。


 侑吾が湯船に浸かっていると、居間の戸が閉まる音が聞こえた。しばらくすると、蛇口から出る水がシンクを叩く音や、電子レンジがメロディを鳴らすのが聞こえてくる。宗吾が帰ってきたのだ。
 侑吾が風呂に入る前に時計を見た時は、針は九時を示していた。それから数十分は経過している。このところ数日間、兄の帰宅時間はおかしい。
 おそらく、世の非行少年という人種は、このような時間に帰宅したり、あるいは深夜まで仲間とつるんで遊び歩いているものなのだろうが、いくら兄が学校の教師に目をつけられる存在だったとしても、そこまで非常識ではない。放課後、友達との付き合いがあったとしても夕飯の時刻までには帰って準備をしているのが普通だった。家族の、侑吾と自分の夕食を作るために。
 そんな兄の帰宅時間が、突然遅くなった。何度かその理由を尋ねたが、毎回うまい具合にはぐらかされて終わってしまうのだった。

 どうして教えてくれないのか。
 鼻の下まで沈めた湯の中で愚痴を呟く。
 侑吾に知られてはならない秘密でもあるのか。考えれば考えるほど、苛立ちが募る。
 乳白色に染まった湯を掬って顔に叩き付け、侑吾は風呂場から出た。
 築五十年近い住宅には断熱機能など一切なく、隙間という隙間から冷気が這い寄る。折角温めた身体も、脱衣所の冷気に包まれてすぐに冷めてしまう。
 侑吾は急いで身体を拭き、スウェットを着る。頭から水を滴らせながら居間に行けば、ソファの上に宗吾が横になっていた。テレビからはバラエティ番組のМCの声が流れる。

「おい、兄貴……」

 遅かったな、と言葉を続けようとしたが、宗吾が静かに寝息を立てていることに気づく。制服はソファの背もたれにかけたまま、スウェット姿で肘掛に頭を預けている。
 そっと忍び寄り、兄の手からリモコンを奪ってテレビの電源を消した。途端に居間は、アナログ時計の秒針と、暖房の低い唸り声で支配される。

「なあ、冷めないうちに入れよ」

 頭上に言葉を落としても、反応は帰ってこない。
 ソファのすぐ横に膝立ちになり、上から顔を覗き込んだ。

「……俺たち、全然似てないよな」

 力が抜けて穏やかに緩んだ寝顔を見つめながら呟く。
 今は静かに伏せられた瞼。兄との顔の共通点といえば、奥二重だということしか思い浮かばない。それ以外はすべて対照的だ。
 凛々しく吊り上った眉毛は濃く、無駄な肉が削げ直線的で硬い輪郭も相まって男臭い印象を残す。対して血色のいい唇は腫れぼったく、触れると柔らかそうだと――いつも思う。
 夢の中ではその唇が、あられもない声を紡ぐのだ。硬い筋肉で主張する乳首や、脚の間にあるものを愛撫してやると、恍惚とした表情をしながら上擦った声で喘ぐ。凛々しい眉を寄せ、泣きそうなほど切ない顏をする。
 散々、その身体を弄り倒していても、唇には触れたことがなかった。自分などが触れてはならない、聖域のような気がして。現実でも、夢の中でも、一度も。

「……ん、……」
「……兄貴」

 眠っている宗吾が僅かに身じろぐ。離れようとすると唇が小さく開いて、音を形作った。
 侑吾、と。
 どきりとした。聞き間違いではない。確かに、侑吾と、自分の名前を呼んだ。動揺してはやる鼓動を胸の上から押さえていると、伏せていた瞼がピクリと震え、ゆっくりと持ち上がった。

「侑吾……お前」

 目の前の弟の名前を呼ぶ、掠れた声。侑吾はどうしたらいいのか分からず、ソファから飛び退くとただ黙って見つめていた。

「お前、冷てえよ」
「……は?」
「髪の毛、ちゃんと拭けよな」

 兄はおもむろに起き上がり、脚を下ろしてソファに座り直す。頭をガシガシと掻き混ぜながら、大口を開けて欠伸をした。
 着ていたTシャツの真ん中に、染みができている。侑吾のことを見もせずに、眠たげな口調でぶつくさと呟いた。

「いつもお前が歩いたあと濡れてんだよ。拭いてから出て来いっつうの。それにろくに乾かさないで寝るし。風邪ひくだろうが」

 そしたら看病するの俺なんだぞ、と起き抜けの少し舌っ足らずな声で小言を言うと、風呂に入る準備のためか居間を出て行ってしまった。侑吾はしばらく呆然としたあと、兄の言う通りにタオルで頭を乱暴に拭いた。
 そして兄へ訊こうと思っていたことを思い出す。


 風呂から上がればすぐに寝てしまうのだから、と宗吾がバスルームに消える前に侑吾は脱衣所に押し入る。まだTシャツを脱ごうとしているところで、侑吾は何故かほっとした。

「何、どうした?」

 服を脱いでいるところに突然やって来た弟に怪訝な顔をしながら、宗吾は腕を下ろした。

「まさか、洗濯物一緒にするなとか言いに来たのか? そんなのお前が後で分けろよ」
「違うよ、女子じゃあるまいし……っていうか、そんなの今更だろ」
「じゃあ何だよ。俺の裸を見に来たとか?」

 侑吾がわざと眉根を寄せて嫌そうな顔をしてみせると、宗吾は溜め息を吐いた。

「わかったよ。何だ?」
「何で最近、帰りが遅いんだよ」

 率直に尋ねると、兄は「またか」と顔を顰めた。頭を掻きながら、億劫そうに口を開く。

「だから……」
「用事だって言うんだろ? その用事って何だよ。俺に隠すことか?」
「お前に言うほどのことじゃねえから」
「じゃあ別に言ってもいいだろ」
「……」

 いつもこうだ。兄は口を割らない。聞き分けのない子どもを相手にするように困った顔をするだけだ。

「外で喧嘩でもしてんの? 学校の友達と?」
「喧嘩じゃねえよ。あいつらとも、別に遊んでない」
「じゃあ何?」
「……用事だよ、野暮用」

 いつもなら下手な誤魔化しに侑吾の方が諦めて問い質すのを止めるのだが、今日は折れるつもりはない。はぐらかされて終わるのはもう嫌なのだ。

「女?」
「は?」
「彼女ができた?」
 
 突拍子もない問いに、兄は目を瞬かせて固まった。

「彼女と遊んでる?」
「……んなもん、いねえよ。お前の面倒見るのでいっぱいなんだから、女作る余裕なんてあるか」

 馬鹿なこと言うな、と吐き捨てる兄に、侑吾はいまひとつ腑に落ちない。兄は盛大に溜め息を吐いて、Tシャツを脱いで洗濯機の中に放り込んだ。

「お前が気にするほどのことじゃねえよ」
「はぐらかすなよ。何で言わないんだ」
「何だっていいだろ……さみぃから早く風呂入りたい」

 腕に鳥肌を立てる兄にそう言われると、これ以上問い質すのも止めざるを得ない。胸のうちにはますます蟠りが溜まった。

「早く行けよ。弟の前でストリップする趣味なんてねえし。明日から考査だろ? 勉強しろよ」
「兄貴だってそうだろ」
「俺のことは心配すんな。俺はギリギリ赤点逃れられれば十分」

 ほら早く出ろ、と無理やり追い払われ、侑吾はやむなくリビングに戻る。
 結局、今日も聞き出せなかった。どうして頑なに言おうとしないのか、侑吾にはわからない。
 気にするほどのことじゃないと兄は言うが、侑吾にとっては重要なことだ。別に帰りが遅いことを咎めようとしている訳ではないのだ。せめて理由だけでも知れたらと思うのに。

 家族である自分に教えてくれないのは、どうしてか。
 実の弟なのに、唯一の家族なのに。そう思うと、悲しくて仕方がなかった。

27/30 手に入らないひと

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