短編

(2)

 部活の朝練に遅れて参加したうえに、結局、最後まで集中できなかった。体育館でボールを打っている間、頭の中にはずっと夢で見た宗吾の姿があった。
 ひとつ年上の兄。その兄が、侑吾が望むような姿で夜に現れるようになったのは最近のことではない。正確にいつ、とは覚えていないがここ一か月、二か月、という話ではなかった。きっと、自分が兄に対して普通の兄弟以上の感情を抱いていることを自覚したのと同じ時期だった。

「あー……くっそ」
「何だよ、侑吾。具合悪いのか? 朝練も何かイマイチだったし」

 朝のホームルームと一限目が終わったあとの休み時間。宗吾の存在が離れない頭を抱えながら机に突っ伏していると、同じバレー部の朝田が寄って来た。

「いや……夢見が」
「悪夢でも見たのか? 寝不足?」
「悪夢っていうか……」

 むしろ幸せな夢だ。幾度となく繰り返し見ている幸せな夢。思い出すとうっかり身体が反応してしまいそうになる。

「悪夢なのかなあ。何度も、同じ夢を」

 突然、教室中の雰囲気が変わる。お喋りに夢中だったクラスメイトたちの声が潜められ、ピリピリとした空気が肌を指す。一体何だと顔を上げると、朝田が表情を強張らせて教室の入口を見ていた。

「なあ、あれって、三年の……」

 大勢の視線が注ぐ場に佇んでいたのは、今、侑吾の頭から離れないそのひと本人だった。
 制服を崩して着た強面の男が、こちらを睨んでいる。

「三年の高橋だよな? 何で二年の教室に? 誰か何かやらかしたのかな」
「いや、うちにそんな度胸あるやついないだろ」

 比較的入口に近いところに立っていた女子生徒が、怯えた表情で近づいてくる。教室の入り口を指さしながら、怪訝そうに「侑吾くんに用事あるって」と呟く。朝田が隣で「お前何したんだよ」と顔を引き攣らせた。



 前を歩く男は、侑吾よりも身長が低い。一センチとか、二センチ程度の差ではあるが。
 昔はそうではなかった。
 侑吾は周囲の子どもよりも背が低く、やせっぽっちで貧相な体格のうえに身体が弱かった。同級生にいじめられることが多く、その度に助けてくれたのが、目の前を歩く兄の宗吾だった。
 兄は昔から身体が大きかった。そのうえ、力も強かった。侑吾に寄ってたかる虐めっ子たちを腕力で撃退してくれた。侑吾にとって彼はヒーローだった。
 中学校の卒業に近づくと、侑吾の身長は急激に伸び、身体も頑丈になった。友達も沢山でき、いじめられることもなくなり兄に助けてもらうこともなくなったが、喧嘩が強いと評判の兄は同じ学校の先輩や他校の生徒に絡まれることが多く、力を振るう場がなくなることはなかったようだ。
 高校二年生の今では、身長は兄を追い越した。今も成長は止んでおらず、百八十センチを超える兄は明らかに長身の部類に入るが、侑吾はそれよりも僅かに高い。侑吾が宗吾に対して優越感を感じることができるのが、身長と勉強だった。

 空いている教室に入るなり、宗吾は小さな紙袋を押し付けてきた。覗くと、藍色の弁当箱が入っている。

「お前、弁当忘れて行ったろ」

 周囲が怖気づくような不良の顔はすでになく、朝に弱いうえに抜けた弟に呆れる兄のものに変わっていた。
 律儀に、二年の侑吾の教室まで届けに来たのだ。

「別にいいのに。購買で何か買うつもりだったし」
「折角作ったのにもったいねえだろうが」

 誰もいない教室に、ふたりの声が響く。
 今頃は朝田が心配しているだろう。恐ろしい三年の不良に侑吾が連れ去られたのだ。
 学校で何か用事がある時は、こうして人目をはばかって会う。というのも、ふたりが兄弟であることは周囲には伏せているからだ。

「そのために来なくていいよ。こっち来るの面倒だろ」

 高橋という苗字はありふれているし、ふたりの顔つきはあまり似ていない。
 宗吾は母に似て目鼻立ちがはっきりとして強く、短く刈った髪の毛は顔立ちによく似合っている。つまり、迫力が増しているということだが。侑吾は父に似て柔和で穏やかな顔つきをしており、髪の毛は部活で邪魔にならない程度には整えているが、似合わないと知っているので兄ほど短くはしない。
 宗吾は喧嘩の強い恐ろしい不良、侑吾は活発で勉強のできる優等生。容姿も素行も違うふたりに血の繋がりがあると思う者は誰もいなかった。

「別に、階が違うだけだし。それにお前、購買の飯まずいって前に言ってたろ」
「言ったっけ? 覚えてない」

 確かに購買のパンはおいしくない。それを食べるよりだったら、絶対に兄の作ったものを選ぶ。わざわざ口にして伝えたりなどはしないが。
 素直でない態度に呆れたのか、宗吾は溜め息を吐いて、スラックスのポケットに両手を突っ込みながら壁に寄り掛かった。

「わかったよ、お前が言いたいことは。飯がどうこうじゃねえんだろ」

 やや俯き顔で、上目に侑吾へと流れた視線に、内心で動揺する。眉間の緊張が緩んで、弟である自分へと向けられる険のない視線。些細な仕草にぎくりとすることが、たまにあるのだ。
 何気ない視線に別の意味を読み取ろうとしている自分に気づくと、嫌になる。

「嫌な顔するもんな、お前」
「俺がいつ嫌な顔するんだよ」
「俺がお前の教室行くと」

 兄の言葉のどこにも、嫌味や卑屈は含まれていない。そのことに侑吾は静かに焦る。

「悪かったな、迷惑かけて。噂になると嫌だろ? もう呼び出したりはしねえよ」

 侑吾と似ていない目元を眇めながら、宗吾の口が僅かに笑んだ。
 何か言わなければ、と逡巡する。

「……そうしろ。教室には来るなよ。あんたと俺の間に何かあると思われたくない」
「ああ……そうだな」
「今だって友達が心配してる」

 宗吾が視線を逸らす。侑吾は、その寂しげな横顔を視界に入れたくなくて、兄の身体を抱き締めたい衝動に駆られた。
 けれど、そうしない。かわりに紙袋の持ち手をきつく握り締める。
 兄弟だということを知られたくないと最初に言ったのは、侑吾だった。高校に上がったばかりの、生意気なガキだ。今はそうではないとは言いきれないが。一学年上の柄の悪い不良が、自分の兄だと周囲に知られたくなかった。
 なのに、目線を伏せた兄の顔を見ると胸が騒ぐ。
 兄の、ふとした瞬間に見せる翳りを帯びた表情に何とも言えない気持ちになる。
 兄弟だと知られたくないなんて、本当はもうどうでもいいことなのだ。ただ、それを打ち明けるタイミングがわからないだけで。

「じゃあ、俺は行くわ。今日も部活で遅くなるのか?」
「ああ。大会近いし。先に食ってて」

 兄は自分に優しい。それを知ったうえで、侑吾は甘えている。邪険にしたり、冷たくあしらったり、生意気な子どものような態度を取る自分に、兄は何も言い返すことはしない。
 たかが一歳違いなのに。
 僅かな年の差以上に、兄は侑吾よりも数段、大人なのだ。その距離はなかなか埋まらない。

26/30 手に入らないひと

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