短編
NOSENSE
※非道徳・後味悪い注意
世の中に存在する全てのものに意味があるとは限らない。
そんな哲学じみたことをかつて口にしたのは、私の彼氏だった。
そんなまさか。
「中学生とか高校生とか、思春期になるとぶつかるだろ、壁に。自分って何のために生まれてきたんだろう、とか、結局は最後に死ぬなら生きてても無駄じゃん、とか」
「はあ」
「考えること自体が、無意味じゃね。そんなの分かる訳ねえじゃん。科学的に考えれば、人間が子孫を残すためなんだろうけど。まあ、自分が存在してるのは仕方ねえことだろ」
「はあ」
もしかすると、この男は、自分たちには生きている意味はない、などと言いたいのだろうか。
次の瞬間、私が一瞬だけ信号無視をした自動車に気を取られている一秒後には「だから心中しようぜ」なんて狂気じみたことを口にしそうで、私は一抹の不安を覚えていた。
「無理心中は最低だと思う」
「俺、別にそんなの要求してねえから」
半ば本気、半ば冗談で口にした批判は、批判と受け止められることなく一蹴された。良かった。
「俺たちが生きてる意味はあると思うよ。俺たちは人生を楽しむために生きてるんだろ、多分」
「尤もな答えだよ」
「でも、人間は物事に意味を求めすぎだ。世の中には無意味なことだってある」
例えば、と彼は続ける。
子供がするアスファルトの落書き。スイカの皮は何故、縞模様なのか。大学のT教授が講義中に鼻を鳴らす回数。
「どうでもいいことだね」
「論理的にじゃなくて、倫理的に考えればどれも意味を成してねえんだよ。そうあるべきだから、そうなってんだよな」
「私にはよく分からないなあ」
そういうものなのか。変わった人だなあ。そんな風にしか私は考えていなかった。少し賢い、そこそこ格好いい、彼氏。上手くいっていた、筈だった。
はて、おかしくなったのはいつだっただろう?
私はそんなことを考えずにはいられないが、彼に言わせると思案する行為も無意味なものなのだろうか。彼が本当はゲイだったのも、私を裏切って知らない男と遊んでいたことも、私が家で一人寂しく彼を待っていたのも、全て無意味か?
九十度ずれた世界の修正も出来ず、私の視界は自宅マンションの玄関のドアを捉えていた。ピンポーン、とどこか空虚に響く呼び鈴の音は私の鼓膜を貫き、客の来訪を迎える彼のモーションはスローに映った。安いドラマの一シーンのように。
「お前、ついにやったのか」
彼がドアを開けて迎えた人物は知的な雰囲気の男だった。男の立つ位置からはリビングの様子まで見えるらしく、驚愕の表情を浮かべている。
「そうだ、ついにやったんだ」
「お前には頭が下がるよ。信じられない」
男は微妙な顔をしていた。最初は衝撃と感動、そして恐怖と困惑。
彼が男をリビングに招き入れる。ここは私の自宅マンション。彼は久しぶりに私の家に遊びに来ていた。
家主に断らず男を呼ぶってどういうこと?
「どうする?」
「どうしようか」
まるで緊張感のない会話だ。私がもし、この二人のうちどちらかの立場だったら、こんなに落ち着いてお茶なんて飲んでいられない。自分の過ちに発狂してしまうだろう。彼の浮気相手(と表現するのもおかしいけれど)と目が合った気がした。
「俺たち、呑気にしてる暇じゃないよ」
私から目を逸らして男が言った。
「待てって。こういう時は動揺しちゃ駄目だ。落ち着いて普段通りに過ごすんだ」
「お前の家に遊びに行ったら何やってたっけ」
「あー……いちゃついてた?」
そうだったのか。「今日は用事があるから遊びに行けない」と連絡を寄越した日は、自宅で男と遊んでいたのか。成程ね。
だからってさ。
彼女の、しかも死体の前で、どうしてあなたたちは甘い雰囲気を作れる訳?
「俺、思ってたんだよ……、お前はいつかやらかすんじゃないかって、っ」
「ん、だったら、とめろよ…、あ」
一時間くらい前から目を開けっ放しにしているから、表面が渇いて渇いて仕方がない。目薬は何処に置いていただろうか。彼が私の瞼をそっと閉じていてくれたら、必要ないのに。
「マジで頭おかしーよ、お前」
「はっ、今更だろ……ぅあ!」
彼の手によって私は死体になった。死んだ彼女の前で男の愛撫を受け入れる彼も、恋人の彼女の死体の前でセックスに積極的になれる男も、私には信じがたい。何て無神経な人たちだろう。激しい嫌悪が身体中を駆け巡る。表面がぬめった蛇が巻き付いているように、それは煩わしく、不気味で、離れようとしない。
彼に言わせれば、私が既に吐き場所を失くした怒りを持て余しているのも、きっと無意味なことなのだろう。
私は立ち上がった。バランスが取れず転びそうになったが辛うじて留まり、フローリングに落ちているロープを手にする。彼を組み敷いていた男がぎょっとして私を見た。
「おいっ、お前の彼女……!」
「っ、あ?」
彼は私に背を向けているせいで気付いていない。最近セックスレスだったその理由に今更気付いた私は愚かだ。簡単な話だ。彼女である私とより、浮気相手の男に突っ込まれる方が気持ちいいから?
ああもう、どうでもよくなっちゃった。滑稽で、すごく可笑しい。何ていう茶番。
最初から、そう、アレだったのだ。彼が言う、無意味だったのだ。
私たちが付き合いだしたのにも大した意味はない。勝手に私が思っていたように、二人が惹かれあったのは運命でも何でもなかった。
私は何に対しても意味を求めていた。この行為には何か大きな、不思議な、スピリチュアルな意味があるに違いない。そう思い込んでいたが、それは人が思う程に価値があるものではなかった。
何だ、がっかり。
「あなたが私を殺したのにも意味なんてなかったんでしょ、どうせ」
あなたたち二人が愛し合っているのにも、意味なんてないんでしょ、どうせ。
最高の笑顔で笑ってみせ、私は彼の首にロープをかける。隣の男が呆気にとられているのを見て、愉快な気分になった。ああ、これには意味があるんじゃないの?
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