短編
(8)
床に落ちたら絶対に割れていただろう。
「っんだよ!」
三浦に捕まれた手首が軋む。案外に力が強く、シンクの縁に縫いとめられた。
こいつ、ついに頭がおかしくなったのか。
「三浦!」
肩越しに見れば、相手の表情には何の感情も浮かんでいない。氷の視線で俺を見据えるだけ。何を考えているのかまったく読み取れず、ぞっとした。
「離せ!」
「……ッ」
振り返りながら咄嗟に引いた肘が、相手の胸に直撃する。
「何だよてめ、ッぶ」
頭の中で星が散り、視界が大きく揺れる。それから訪れるこめかみへの衝撃。一人で立っていられなくなり、後ろ手にシンクの縁を掴む。
三浦に殴られたのだとわかった。わかったが、何故俺が殴られなければならないのかわからない。何かこいつの琴線に触れるようなことをしただろうか。
「な……に、キレてんだよ」
乱暴に身体を反転させられ、押し付けられる。どうしてキレているのかそこまでの文脈はまったく思い当たらない。ただ、この状況がかなりまずいということしか。
ふと視界に、キラリと光るものが目に入る。いつぞや洗った後、タオルの上に放置していたフォーク。咄嗟に手を伸ばすが、目的のものを掴む前に下半身に激痛が走った。
「――!」
声にならない悲鳴。息が出来ない。額に、じんわりと嫌な汗が滲む。
「……握り潰すぞ」
俺の股間をきっとありったけの力で握り込んで、やっと聞いた三浦の声は酷く暗い。いつもの馬鹿にしたような調子はなく、耳元で囁かれた言葉に本能から恐怖を感じる。
本当に、駄目にされる。
「なに癇癪起こしてんだよ……手、放せ」
首元に感じる三浦の息遣い。癇癪を起している人間なら荒くてもいい筈なのに、不気味なことにいつもと変わらない。頭がおかしくなった訳でも、我を失っている訳でもないのだ、この男は。それはかえって恐ろしい。
「聞こえてんのか……いっ」
項に固く鋭い感触。最悪、噛まれたらしい。唾液でない何かで濡れている感じがする。
何だこいつ、一体、突然、何だってんだ。頭の中は混乱状態で、身体は竦んで身動きがとれない。もしかして、殺されるんじゃないか――。
突然、股間を鷲掴みにする力が緩んで、無意識に詰めていた息を吐く、間もなく、三浦の手は違う動きを見せた。血が止まるんじゃないかと思うくらい圧迫していた股間を掴んだまま、弧を描くように緩く手を動かし始めた。
「ん、なっ……」
訳が、わからない。着衣の上から、愛撫するように優しく。逃れようにも、俺は今、急所そのものを支配されている訳で、抵抗しようものなら再びあの痛みが訪れるに違いなかった。
「クソ……何考えてんだよてめえ」
「うるさい」
耳元で、酷く不機嫌そうな声。息を呑む。
何で俺はこいつにビビってんだ。さっきまで感じていた怒りは、どこにいった。代わりに困惑と恐怖が、頭を支配している。
「黙ってろ。騒いだらマジで使い物にならなくしてやる」
完全に脅しだ。俺が一体何をしたっていうんだ。むしろ俺はされた方だ。三浦に侮辱された。怒るのは俺の方だ。
殴られて、急所をとられ、自分が情けない。それだけではない、この状況で、いつ潰されるかもわからない危機に面しても、俺の下半身は大人しく縮こまっていては、くれない。
「……っ」
律儀に反応を示している自分自身を罵りたい。馬鹿野郎、変態か俺は。
硬いジーンズ生地の上からやや乱暴に股間を揉みしだかれ、息が上がる。興奮している自分がみっともない。自嘲すると同時に、三浦が鼻で笑う。
「この状況で勃つのかよ」
「うっせえ……」
ズボンの中で性器は徐々に形を変えている。この緊迫した空気で、三浦の手で。このクソ野郎は俺を散々に貶めたいらしい。
「マジ何なんだよ……」
「おい」
突然、反対の手で肩を掴まれ、身体が反転する。相手と身長はほとんど変わらない。無駄に整った冷酷な顔は鼻の先にあり、今度は何だと身構えていると、横から脚を蹴られ、その場に膝をついた。
「なに……」
「舐めろ」
高圧的な声が頭上に降ってくる。反射的に見上げるが、冷めきった視線とかち合うだけ。
「は?」
「舐めろっつってんの。得意だろ?」
「何で……、ッ」
半分ほど勃起している股間を、足でぐりぐりと押し潰される。このまま踏み潰されてもおかしくない。反抗でもしようものなら、俺の息子の行方は。
口を噤み、大人しく目の前にあるジッパーを下ろし、下着をずらし、まだ柔らかい三浦の性器を口に含む。
いつもしているように、こいつにもしてやればいい。相手の顔を見なければ、三浦だとはわからない。誰か適当なセフレだと、昨日ヤった奴だと思ってやりゃあいい。何も考えず。
「歯立てんなよ」
噛み千切ってやりてえ。その思いを封じ、無心で舌と唇を動かす。
19/30 君と恋がしたい