短編

(6)

 草原は、どこまでも草原であった。乾燥して砂埃が駆け巡る黄土大陸に、一面広がる薄緑は珍しいものであった。少なくとも、何嬰にとっては。
 徐恵は仕官すべき主を求めて全国を旅した経歴があるようだから、この見事な光景は過去に見たことがあるに違いない。何嬰は隣の男の横顔を見たが、果てまで広がる地平線に目を奪われていた。

「これは、素晴らしい」

 と感嘆していた。
 この草原は、先日まで二人が仕えていた帝の治める土地ではない。既に国境を越え、隣国までやって来た。しかし群雄割拠の時代に乱立していた国々の唯一の生き残りであるこの国も、今にあの皇帝によって飲み込まれてしまうのかもしれない。

 何が素晴らしいのか。この夕日に照らされた見事な光景か。それとも、他国で見る景色自体がか。きっと両方だ。

「恵、これから何処へ向かう」
「そうだな――」

 正直、今この場で馬に乗りながら、徐恵と会話をしているのは信じがたい現実であった。
 徐恵が何嬰の剣を奪って自らの頸部に押し当てようとした時、部屋の扉が開いて、班達が強盗のような勢いで乗り込んできた。そして「お逃げ下さい」と叫んだ。

『どうかお二人は逃げ延びて下さい。此度の始末が私がどうにかいたしましょう』

 そう言う男に何嬰も徐恵も、知り合ったばかりの貴殿にそこまでして頂く訳には行かぬ、と断ったのだが、相手は唾も飛ぶ程の熱意で続けた。

『ご存じないかもしれませんが、私の父は徐恵殿のお屋敷に仕えていた下男でございます。道端で物乞いするような卑しい身分の父を受け入れ雇って下さった恩は、息子の私も伝え聞いております。父は既に疫病で死にましたが、最後まで徐家への感謝を口にしておりました。どうか、父の代わりに恩義を返させて下さい。あなた方お二人を救うのは父の願いでもあり、また私の孝行でもあるのです』

 最後は涙を流しながら、嗚咽混じりに語っていた。

 二人はついに決行した。班達の手配により、何とかからがら、すぐそこまで迫っていた包囲を脱し、二頭の馬で駆けた。関も突破した。国境も越えた。――班達という孝行者の行く末は、二人は知り得ない。


「私は、どこか遠い国を行ってみたい。この中華ではなく、海原を船で渡り、見知らぬ異国の地へ」
「お前がそのように望むなら、俺も異論はない。行きたい所へ行こう」

 そうして二人で生きて行こう。柔い風が吹き抜ける大地の上で呟いた言葉は、大気に攫われて何処かへと運ばれてゆく。何嬰は馬の腹を蹴った。細く戦慄いて緑の上を駆け出す。すぐに徐恵も走り出した。

「私の家の犬と競走をした時、君は犬よりも足が速かったな」
「その頃から武人の才能があったんだ、きっと。速いのは足だけじゃない、馬だって誰よりも速く走らせることが出来る」

 何嬰が加速すると、徐恵も同様に加速させて両人の馬が横に並ぶ。青毛と栗毛が並んで晴れた大地を抜ける様は爽快であった。
 人生は限られている。しかも、その早く過ぎる様は無情な程である。二頭の駿馬のように、颯爽と過ぎ去ってしまうのだ。しかし、この一瞬一瞬を隣を走る男と共に生きることが出来たらなら、それ以上に素晴らしいことはないだろう。一時は全て諦めた何嬰でも、今は強くそう思えた。

「あの犬は君と別れた後にすぐに死んで、桃の木の下に埋めたんだ」

 豪風が耳元を乱暴に過ぎる中、徐恵が叫んだ。

「そうか。あいつが生きていたら共に狩猟でもしてみたかった」
「今度、二人で兎でも狩りに行こう」
「今度? 無事に何処か遠くへ逃げ延びることが出来たらな」
「そうだ、無事に心を落ち着ける場所に到着できるか分からない……だから今、君に訊いておきたい」
「何?」
「訊いておきたいんだ」

 何嬰は右隣を走る男を横目で一瞥したが、真直に正面を見たままであった。その横顔は何事にも揺さ振られない確かな意志を感じさせた。

「あの時、私は君に告白した。好きだと言った。愛している。……君は、私をどう思っている?」
「そのことか……」
「ただの幼馴染と言われてしまったらそれまでだが――処刑場で命を救って貰い、更には命を張って守ってくれた、その理由が単に幼馴染だからということだけでは済ませたくない、というのが本音だ。図々しいのは理解しているが、少し期待しているんだ」
「ふ……可愛らしい奴だな、お前は」

 風だけに聴かせるつもりで呟いた言葉であったが、徐恵は「今、何と?」と何嬰のさざめきのような小言を聞き返した。

「嬰?」
「阿恵! 俺も、好きだ!」

 大音声で叫んだ瞬間、徐恵が驚愕したような気配を感じた。それに気づかぬ振りを一度はしてみるが、耐え切れず噴き出してしまう。この愛しい男も、自分も、初と思う。

「嬰、それは本当か! 君の本心なのか!」
「二度は言わぬぞ! ――さあ行こう、海の向こう側へ旅をするのだろう」

 黙って俺に着いて来い、でなければ置いて行くぞと言わんばかりに馬を打ち、全力で走らせる。後の徐恵が必死に追いつこうとするのを想像すると可笑しかった。
 案ぜずとも、この男を置いて消えたり、ましてや一人先に死んだりするつもりは毛頭ない。寧ろいっそ刎頸の交わりを持つことも本望であった。それほどまでに徐恵という男を愛しく感じていることを、不意に湧き上がってきた感情で思い知った。
 あの時、前に徐恵を乗せて背中に矢を受け止めた時から、既に根底は決断していたのだろうか。救ってしまった以上、この男と共に生きる義務があると。否、生きたいと、無理だ不可能だと思いはしたが、自らそうしたいと思っていたのだろう。

 太陽は未だ高かった。草原を駆け一心に先を夢見る二人の青年を鼓舞するかの如く、赫々と照る。何嬰は馬を駆りながら、人々を見下ろす天を仰ぎ、大きく笑った。





友情に限りなく近い愛というか。親愛というか。大好きです。
刎頸の交わりは「生まれた時は違えど、死ぬ時は一緒だぜ!」みたいな感じの誓いです。美しいですね…。

11/30 紅を負う

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