短編

(4)

 一時は高熱を上げ意識混濁にさえ陥った何嬰だったが、熱心に看病に努める男がいたためか、日を追うごとに容態は快方へ向かい、背中の矢傷も幾分かは流血を遠慮するようになった。今も、寝返りを打てばズキリと痛むかという程度で、歩いて動く分には大した支障はなかった。
 先日の事変の昂ぶりも消滅したかと錯覚させるような、穏やかな夜であった。
 二人に宛がわれた早朝の朝日が差し込む一室で、何嬰は言った。

「向こうは俺たちの居場所を突き止めたらしい。そう間もなく逆賊を殺しにやって来るだろう」

 やはり、逃亡者がこの町に招き入れられるのを見た者がいるようだった。帝はこの二人のために小規模な軍団をこちらへ派遣するとのことである。
 何嬰の予想した通り徐恵の無罪は立証された。彼の才智を妬んだ者が偽の密書を作成し、徐恵の弟子の目が及ぶ範囲に置いたのだという。その男は死んだ。

 それでも徐恵の気持ちに変化はなかった。相変わらず、何嬰と共に“生きる”心積もりなのである。

「生きる……今の状況でどうやって生きると言うのだ。お前だけならまだしもだ、徐恵。たといお前の無罪が知れたとしても俺が罪人なのには変わりない。帝に暴言を吐いたのだ」

 確かに、何嬰が帝の御前で諫言したように、徐恵の罪は作為的なものであった。しかし何嬰の意見が正しかったと雖も、天子に「人の使い方を理解していない」などと誹謗した真実は消されることがない。帝は未だ、憤しているのである。
 帝が派遣する軍と衝突することになったとしても多勢に無勢、絶望的なことは明白である。十中八九、何嬰は捕縛され、宮刑よりも恐ろしい刑に処されるか、情けを掛けられたとしても精々が死刑であろう。
 故に、叶えてやりたくとも徐恵の願いは聞き入れられない。何嬰には、徐恵一人の命を保つことしか出来なかった。

「ならば、残るは逃げるしか道はない。共に出よう、ここを」

 二人で生きられることを信じて疑わぬ徐恵の堅い決意を知り、何嬰は心を痛めた。また、つい先日に自身も一生この男と共にいようと心底から誓った自身を罵った。もしそれが可能であれば、十里先の的を矢で射ることは遥かに容易い。
 この男を裏切ることになると思うと、胸が張り裂ける思いだった。
 やはり無理であったのだと。

「関は封鎖され、遠方へ逃げ延びることあたわず、我々には二つしか道がない。二人とも投降するか――この場合、お前の命は助かる。それとも……揃って自刎するかだ」

 果たして告げた時の徐恵の表情はと言えば、予期せぬ所に裏切りが潜んでいたと知ったかのような驚愕と失望で染められていた。戦慄く手を何嬰の双肩に置き、縋るように力を籠めそこに皺を作る。

「何を馬鹿な……戯言を。君は、私の言葉に確かに頷いてくれたじゃないか。共に生きようと。あれは嘘だったのか」
「すまない、徐恵。俺も、可能であればお前と共に、昔のように残りの生涯を過ごせたら良かったと思っている。しかし理想と現実はあまりにも異なる。お前も分かってはいるだろう。打開策などないことを」
「嬰……」
「賢いお前なら理解してくれる筈だ」

 真直すぎる眼差しで目の前の男を射抜けば、肩に置かれた手は力なく垂れ下がる。そうして徐恵は震える声で言った。

「嬰、私は短い間ながらも君と共に過ごすことが出来て本当に嬉しかった。人生の最期に、救われた思いだった……いや、君は本当に私を救ってくれたのだったな。あのまま処刑されていれば悔恨の念は消えなかったろう。ありがとう、嬰」

 徐恵の新たな決意は更に堅かった。涙を浮かべて囁く徐恵の目は、昔の無邪気に遊んでいた頃のものと同様であると言えばそうとも思えるが、大丈夫としての力強さも加わっているように見えた。
 ――この男は、きっと。

「命を絶つ前に、秘密を伝えておきたい」

 徐恵であれば、そちらを選択すると予想していた。外れることはなかった。一人だけ生き延びるのは忍びないと考える男だ。
 しかし、何嬰は快く賛成できない。
 徐恵を死なせたくはなかった。

「何故だ徐恵。お前は生きろ。その方が良い。俺と共に死ぬことはない」
「私のことは私が決める。君と共に命を絶つ」 
「何故、そこまで……。俺が折角、救った命じゃないか。それを無駄にすることはない。謀略に嵌められ処刑されかけたことも恥じることはない。堂々と生きればよいのだぞ」
「……今、秘密を話そう。子供の頃から、長年心の奥底に仕舞い込んであったのだ。今が時機だと思う」
「徐恵」
「聞いて欲しい」

 徐恵はどこまでも真摯であった。何嬰は口を噤んだ。

「私は嬰が好きだ。愛している」
「――」
「狂人と軽蔑され、切り捨てられても構わない。これだけは絶対に、死ぬ前に君に伝えたかった」

 徐恵は微笑していた。驚愕のあまり物も言えぬ何嬰の心臓は、何かを予告するように異様な早鐘を打っている。驚きと狼狽と焦燥と、それ以外の何か。
 徐恵は何嬰の腰元から剣を抜いた。

「君のために死のう、愛しき朋友、嬰よ!」

 待て、と制止の声が何嬰の口から発せられる前に、徐恵は自身の首に刃を宛がい――そして、全てを終わらせるための行為を為す。

9/30 紅を負う

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