短編

(3)

 何嬰の背に処置が施されてから二日目の夜である。
 何嬰は喉が渇いて目が覚めた。加え、長時間無理な体勢で寝ていたためか肩や首が軋んでおり、背中はズキズキと引き裂くような痛みを訴える。
 ただ、左の手が異様に温かく――徐恵の両手が柔らかく包み込んでいた。

「……」

 徐恵は隣、椅子に腰かけ台に伏せながら静かに背中を上下させていた。静かな寝息を聞いて、起こしてはいけないと思うのに、縋るように、確認するように手を握り締めてしまう。
 俺はまだ生きているのだと。何嬰自身にも、徐恵にも、確認したくて。噛み締めるように力を込める。何やら頭がガンガンと喚く中では大した力は出なかったが。弱弱しく握り締める。

「徐恵……ずっと傍らに付き添っていてくれたのか」

 声は驚くほどに掠れていて、発声してから自身で驚いた。長い時間眠っていたようだ。思えば、高熱に苦しんだような覚えもうっすらながらある。身体の関節も、使い古した得物のようにミシと軋む。

「生きていて良かったぜ、徐恵よ。お前とこうして再び話すことが出来るとはな。しかしやはりお前と共に居ることは出来ないのだ。お前の罪は偽りだ。確と鑑定さえすれば必ず晴れる。しかし帝に無礼を働き処刑を中断した俺の罪は消えぬ。徐恵を強引に拉致したのは俺なのだから、俺だけが罪を負えば良い。悪漢に連れ去られたと言って降伏すれば、奴らもお前の命までは取るまい……」

 聞こえるのは何嬰の低く静謐な声と、徐恵の安らかな寝息だけだった。
 徐恵が眠っている間に自身の気持ちを伝えるのは卑怯極まりないとは知っていたが、昼間に相手の真顔を見て伝えるのはどうにも無理だと思った。また何嬰が意識を取り戻しての早々にそのような話をされても徐恵は困惑するだろうとも思った。故に些か姑息な手ではあるが、聞こえていない徐恵に話したのだ。

「今だけは恵と呼ばせてくれ。……お前は覚えているだろうか。幼き日、何里に渡って田を所有している閥族の屋敷があっただろう。お前の家の屋敷の隣だ、恵。あの家の桃の木から十個ほど果実が盗まれたという事件があったが、翌日にお前の屋敷に苦情が来たな。すまなかったな、盗んだのは俺なのだ。……後でお前と食おうと思って川で冷やしていたが、結局流れて行ってしまってな……あれは残念だった」
「そうだったのか……何故あの時、話してくれなかったのだ」
「! ……起きていたのか」

 徐恵がむくりと上体を起こし、改めて何嬰の手を両手で包み込んだ。文人らしく、骨ばってはいるがしなやかな手である。関節ばかりが大きく出っ張り、太く武骨な何嬰のそれとは全く異なる。
 徐恵は幼な子の悪戯を面白がるように笑った。

「近所では、遊び盛りの私が桃盗人の犯人ということになったのだ。子供がすることだから家人も周囲も笑って許してくれたが、父には二日間、折檻として蔵に閉じ込められたよ」
「それは……知らなかったな。今更謝罪するのもおかしなことだが、申し訳ない」

 不思議な空間が形成されつつあった。暫し、二人で昔のことを語り合った。あの頃は会える時間を目一杯使って野を駆けた。徐恵の家の犬を嗾け、競走もした。子供心の軽悍な気持ちで山中に冒険に入っては夜になり帰宅できなくなったこともあった。あれは恐怖の事件であったが、今となっては酒の肴にもならぬ程子供染みて平和な出来事であり、また懐かしくもある。
 十何年と共有できなかった時間を取り戻すかのように声は絶えなかった。

「実は私も君に秘密にしていることが一つある」
「秘密?」
「今はまだ言わないでおこう。君の傷が癒え、今度の騒動も片付き、二人に平穏が戻った時にでも告白しようと思う」
「恵、俺は」

 お前と共に過ごすことは出来ないのだ。そう口にしようとして何嬰は押し留まった。徐恵が恨みにも近い真摯過ぎる表情で何嬰を見つめていた。

「私一人降伏して生き延びるだと? かような愚かな選択、誰がするものか。嬰一人、死なせる筈がない」
「しかしお前にはまだ望みがある。俺にはない。未来などない。罪人の俺と共にいてもお前は報われない、お前は冤罪なのだから直にそれも発覚し、今まで通り国に仕えることが出来るのだぞ」
「そのようなこと、さして重要ではない。私にとって最優先されるべきこと、それは君と一緒に生きることだ」

 いつの間にか、何嬰の手を握った徐恵の手の甲の上に、数滴の雫が落ちていた。何嬰ははっとして相手の男の顔を見る。
 彼は、本気だ。これが嘘であったなら自身で首を刎ねられるくらいに真実を述べているのだと、何嬰は今更ながら男の決意に気が付いた。彼は誓って、生半可な心情で言葉を述べているのではないのだと、何嬰を見つめる目を見れば知り得た。
 何嬰は横臥しながらも、軽く頷いてみせた。死んでもこの義理堅い男の傍らにいようと決めたのだった。

8/30 紅を負う

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