短編

(2)

 それから何刻、何里、走ったのは分からぬ。前後話を交わさぬまま長時間馬の背に揺られて着いたのは、とある小さな町だった。既に深夜であった。
 何嬰と徐恵の有様を認めた民たちは、急ぎ班達(ハンタツ)という男へ交渉に走った。班達は、この町を治める役人で、小さいながらも割合立派な城を有していた。事態を知った班達は二人を城に招き入れ、至急手当をさせた。

「この町にも、一日前に徐恵殿の処刑の知らせが触れ回ったところです。私はあなたの叛意を真実だと思っておりません。それはこの町の民、全員に通ずることです。安心してお休み下さい」

 まともな衣服に着替えた徐恵は、男、班達を前に陳謝した。信じてくれる者がいるというのは本当に心強いことだ。身に覚えもない書の存在を挙げられ、捕えられ、市中に引き出されて――何もかも、誰もかもが敵だと感じていたのだ。
 しかしこの男よりも早く、徐恵の救いの手を差し伸べてくれたのは、何嬰だった。

「何嬰殿が宮刑だと知らされたのは今朝がたでした。あなたの処刑のことで帝に諫言申し上げ怒りを買ったとか」
「嬰……何嬰が」

 突然、隣の部屋から凄まじい物音が聞こえてきた。陶器の割れる音、獣のような咆哮、慌てふためく声。罪悪感に押し潰されそうになるのを堪え、徐恵は膝の上の拳を握り締めた。

「私は自身が情けない! 叛意を疑われ弁解することもあたわず、刑が執行されんかという直前にあの男に救われた。挙句、そのために矢傷まで負わせてしまった。彼は今、激痛にもんどりうって苦しんでいるというのに、何の力になることも叶わない」
「いいえ、そのようなことはございませぬ。何嬰殿は義のため、そしてきっと何か深い所以があってあなたを助けたのでしょう、その彼に会って礼を言い、言葉をかけることが何よりも薬になる筈です。致命傷ですが、諦めてはなりません」

 徐恵は感涙して頷くと、その場を立って隣の部屋へ赴いた。
 部屋は咽返る程の濃い血の臭いで充満していた。中央には、昼に徐恵が寝かされたような木製の台があり、その上に何嬰が俯せになっている。一人の医者と他数人が取り囲み、彼の手足を押さえつけていた。医者は医療用と思わしき刃を片手に、もう一方は何嬰の背に深々と突き刺さる矢の端を掴んでいる。

 幸い貫通には至っていないようだが、緊張した空気に徐恵は息を呑んだ。
 医者が矢を引き抜こうと力を込めると、患者が死にもの狂いで暴れるのを、周囲がありったけの力で抑え込む。患者が悲鳴を上げる。徐恵の方が、胸を貫く痛みでどうにかなってしまいそうだった。

「何嬰殿、あと少々です。少々で矢が抜けます、暫し辛抱下さい」
「っ……」

 医者がじくりじくりともどかしい程にゆっくりと抜こうとするものだから、とうとう徐恵は速足で近づき、医者を押し退け矢を握った。

「徐恵殿」
「私に任せて貰えないだろうか。一息にやってしまった方が、彼にとっても優しい」

 有無を言わせぬ気迫で凄めば、医者はうんともすんとも言わずに、ただ首肯した。それを確かに見、手の先に力を込める。傷口から膨大な量の血が溢れ出た。

「何嬰、意識はあるか。今から一息に引き抜く。どうか堪えてくれ……」

 肉に引っ掛かるのも厭わずに矢を垂直方向で引っ張り上げれば、男は猛獣のように我武者羅に暴れた。聞くに堪えない痛々しい叫びが上がる。矢尻が完全に外気に出ると共に、押さえつける力を振り切った何嬰の腕が顔を掠め、それきりバタリと台の上に落ちた。誰のものか知らぬ、荒い吐息が部屋中に拡散していた。安堵とそれ以外の何かで徐恵の目には涙が浮かんでいたが、零れ落ちそうになるのを目を大きく見開いて保ち、矢を床に放る。医者たちは至急矢傷の手当に軟膏やら包帯やらを用い、何とか止血を施した。それでも白の上に不吉な赤が滲み出る。

「少し二人きりにして貰えないか」
「構いません。何かありましたら隣の部屋におりますので、おっしゃって下さい」

 人払いがされた後も、徐恵は暫くの間、何嬰の脇に腰掛けていた。さて意識があるのかそれとも失神しているのか、紅の滲む包帯が巻かれた背中はひくりとも微動だにせず、かと思えば苦しげな呻き声が上がる。矢を真面に受けて内蔵にまで損傷を来し、あれだけの血が流れたのだから命が危ういのは確実であるのに、本人は台に伏せたまま、時折生きていることを思い出したかのように僅かに動く。通常であれば生死の淵を彷徨うような致命傷であるのに、何嬰が割合平常通りの呼吸をしてみせるのは彼自身の気力からかもしれなかった。

「嬰……」

 とても懐かしい名をぽつりと零し、血の気を失って青白い背を撫ぜれば、それに反応するかのように何嬰の握り拳が僅かに震えたような気がした。

「嬰、君だとは思わなかった」

 徐恵の声音には、何か愛しいものを見るかのような淡い情が含まれているようだった。

 嬰は、何嬰は、徐恵の同郷の友人だ。この国で何嬰と聞いて、まさか彼のことだとは露ほども思わなかったが。
 仕官の時期は違えど、二人して同じ君主……帝に仕えることとなろうとは。あの頃は思いもしなかった。
 家柄が大きく異なった二人は、数週間に一度会えるかどうかという程度で、また互いの姓も知らずに一緒の時を過ごした。年の近い遊び相手に会える時間の少ない二人は無駄な言葉のやり取りをするより、徐恵の飼う犬と一緒に二人で野兎を追いかける遊びの方に熱心であったし、呼ぶのは名だけで事足りる親密な関係だった。※

 その何嬰と、このような形で再会した。故郷より遠く離れた都の広場で、何故か執行人の格好をした何嬰と、叛逆罪で捕えられたこの身とで。死を運ぶ執行人がかつての親友であることは、顔つきを一目見ただけで分かった。
 何と皮肉なことか。徐恵を助ける形になった何嬰が結果的に大怪我を負うてしまったことにつけては言うまでもなく。天の決めた運命と言うには、非情である。

「嬰よ、もっと早く、君の存在に気づいていたら……何嬰が、嬰であることを知っていたら」

 数多の戦績を残した将軍・何嬰という男に関心を抱いて、彼を訪れていたら。或いは幼き日々に、互いの姓を知り得ていたら。こんな悲惨な再会の仕方をせずに済んだであろうに。もっと早く再会できていただろうに。

「……阿恵、か」
「!」

 書簡を擦り合わせたような小さな小さな掠れた声が確かに届き、徐恵は瞬間的に息をひゅうっと吸い込んだ。安静のために俯せの格好を崩せない何嬰は顔だけ徐恵の方向へ向け、十数年来の再会を喜ぶでもなく、ただ静かに涙を流した。

「すまない、恵よ。……俺は」

 男の呟きに対して咄嗟に言葉が出てこなかった。

「っ……何を謝ることがあるか。君は私を救ってくれたじゃないか」
「違う、俺は最初、殺す気だったのだ。執行人となり罪人を斬れば宮刑を逃れられると言われ、自分の身が可愛いあまりに保身に走ったのだ。罪人の徐恵が、故人の――恵と同一人物だと知らなければ、俺は躊躇いもなくお前の胴体を真っ二つにしていただろう」
「それでもいいのだ。そんなことよりも、私は君に再会できたことが何より、嬰……」
「名で呼ぶのは止めてくれ、徐恵殿」

 何嬰の声は掠れると共にまた冷たく硬質でもあった。昔に二人で築いた過去を一切切り離すような拒絶が含まれていることを知り、徐恵は思わず彼の傷や血で汚れた手を握った。握り返す反応はない。

「俺にはもう、貴殿に名で呼ばれるような資格などない。処刑場では思わず助けたが、それっきりにしよう。俺を置いて貴殿は遠方へ逃げ落ちてくれないか。関封鎖の命を知らせる馬が飛ばぬうちに」
「馬鹿なことを言うな。私は君を置いては行かないぞ。君の背中に、私を救ったことの証がある限り、どうして離れんとするものか。何嬰などと、よそよそしい呼び方もしないぞ。十年来の友に遠慮などするものか。いや、友という言葉で言い表すには到底足りぬ、不意に起こったこの感情をどうしてくれよう――」

 徐恵が決して引かぬ姿勢を見せつけると、何嬰は静かに瞼を閉じた。左の目頭から涙が零れ、木台に染みが出来る。何嬰はそれきり物言わぬ石となり、安堵しきったような安らかな寝息を立て始めた。一晩中、徐恵は彼に付き添っていた。



※基本的に名前は姓+名+字で構成されていますが、名を呼ぶことが許されるのは目上の者(親とか)に限ります。それ以外の者が名を呼ぶのは失礼にあたり、通常は字や姓+名で呼びます。この二人の場合、通常は呼び合わない名オンリーで呼び合う=特別という感覚…です。

7/30 紅を負う

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