叢中の男

(8)

「お帰りなさいませ伯謀殿」

 宿泊地である亭に着けばその主である亭長の男が恭しく礼をして朱睿を迎えた。

「お食事はいかがなさいますか」
「今日は要らないよ。部屋で休ませて欲しい。すまないね」

 役人専用の宿屋と警察を兼ねる亭に宿泊しているのは朱睿一行のみだった。司馬蘭以下の部下たちは既に休息を取っているようで、亭の建物内は夜に相応しく静まり返っている。
 用意された部屋へ入ると朱睿は筵の上に寝転がり、肘をついた。酒での高揚は冷めやらぬものの、思い起こすのは姜堅のことだった。

(いくら民を暴政から救うためとは言え罪は罪だろう――)

 姜堅が張旻を殺害したのは決して私欲のためではない。それは明らかだが、いくら非道な人物でも役人を殺した罪は重く、刑を逃れることは何人にも出来ない。
 加え姜堅は賊である。労役に出ている訳でも、税を納めている訳でもなし。他人の金品を簒奪しそれで生命を保っているような男である。義からの行為とは言え容易には許され難い。
 先刻は本人に対し肯定的な言葉を並べ立てたが、小人ではないと雖も善人でもないのだ。
 それでも何故か、心に引っ掛かるのは。

「伯謀殿」

 薄い仕切りの向こうから男の声がすると、こちらの返答よりも前に衝立の上方から司馬蘭が顔を覗かせた。

「ご無事でしたか」
「当然。怪我をする理由など何処にもあるまい」
「しかし連中は暴徒の属です。いつ野蛮な行為に及ぶやも知れませぬ」

 険しい顔つきをしながら朱睿の領域まで至った補佐官は、酒場から帰らせられてから長時間辛抱強く朱睿の帰りを待っていたらしかった。既に町の人々も寝静まる時間帯である。仕事のうちとは言え今まで酒宴に参加していた自身と彼とを比べ、些か申し訳のない心情が生じる。

「相当飲ませられてしまって、今も頭が平生通りには物事を考えられぬ有様だ。待たせてしまい誠に申し訳ない」
「畏まらないで下され、あれは此度の責務には必要だったこと。伯謀殿が謝罪なさる所以などありますまい」
 
 それよりもまず、司馬蘭には訊きたいことがあるようで、朱睿の前に正座すると声を潜める。姜堅一派討伐の詔勅は、亭長の耳に入れてはならぬことになっている。

「あの男が一人となる時が機でしょう。きっと暫く滞在する、町に現れれば捕まえることは難しくない」

 司馬蘭は至極当然のように説いたが、一つ重要な点を見落としているようである。対照的に、朱睿の念頭には姜堅の隣に控えていた大柄な男の存在があった。

「しかし簡単にとも行かぬ。姜堅の隣で飲んでいた男を見たか」
「ええ」
「あの者は只者ではない気配だ。私が酒宴に同席していた間、絶えず見張られていたような気がする。腕の立つ男だろう」

 もし姜堅が子分を連れずにいたとしても、きっとあの呂飛という大男だけは例外であろうと直感した。彼は姜堅の腹心だ。属の頭に手をかけようものならば逆に呂飛に殺されてしまうかもしれない。

「数日の間、様子を見よう。姜堅が本当の一人きりになることがなければ、実力行使も視野に置く」
「了解しました」

 本来はこんなにすぐに町で発見できるとは予想しておらず、いくらか山中を歩き回り長時間に及ぶ捜索に至るつもりでいた。だから軍勢を連れ立って赴いたのに、町中では迂闊にぞろぞろと手勢と引き連れて歩く訳にはいかない。しかし少数では彼奴らを捕えることは困難である。やや面倒くさい手が必要のようだ。

 一人思慮に耽りながら、朱睿はあることを思い出した。

「公譲、君は以前に姜堅を一度でも見たことがあるか」

 思っていたことを尋ねたが、司馬蘭はやはり訝しい表情をして首を傾げるばかり。

「人相書きで見ただけですが。どうしてそのような?」
「いや……些か引っ掛かってね。どこかで見たような気がするのだ、あの男――」

 朱睿の思い違い。そう割り切ってしまえば、成る程やはりそうかもしれぬと刹那思うことが出来たが、何故か思い違いではないような気がするのだ。確かにあの男を、異民族の赤髪を、顔を横に走る傷跡を、何処かで見た。
 しかし、いつ、どこで見たのか。一切分からない。

「あの男のような派手な容姿の者はこの国では珍しい、会えば必ず誰かに伝えるでしょう。私は伯謀殿と知り合ってから久しいですが、あなたからそのような話を聞いたことはありませぬ。きっと記憶違いですよ」
「……ううん、やはりそうかもしれぬな」

 納得のふりはしてみるものの、結局心中の霞は晴れないままであった。

19/19 第一章

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