叢中の男

(3)

 男の頭が宙に舞い、重力に従って地に落ちる。真っ赤な血液を纏いながら床にぶつかり、もう一度跳ねてから顔をこちらに向けて静まった。淀んだ色の目は恐懼にカッと見開かれ、唇の端から涎が零れている。
 恨んでいるようでもあった。

「我が君……ッ」

 輝帝であった男の首かた下の半身が崩れ落ちて伏せた後ろに、一人の男が立っているのが分かった。轟々と燃える炎を背に、長剣を手にして仁王立ちをしていた。

「貴様、何者だ! 大王の寝所と知っての狼藉か!」

 と言っても、大王……皇帝なる男は既に存在しない。今先程、そこに立つ男に首を撥ねられ、命を絶たれた。
 急に後ろ盾を失い、春は心に穴が開いたような虚無感を得た。

(これから、おれはどうなる? 輝帝と同様、あの曲者に殺されるのか?)

 春は咄嗟に枕下に腕を差し込み、非常に備えて隠してあった匕首を取り出した。
 死を覚悟するしかない。刃を戸口の方向に向けた時、男が大股で近寄ってきた。炎による逆光で顔は見えない。
 春は寝台から出て、愚直にも匕首を突き出したまま男に向かって疾走した。刺し殺せるとは思っていない。せめてもの抵抗でしかなかった。
 予想通り刃は男の腹に刺さることなく、相手の手によって払い落とされた。刃は器用に舞い、春自身の顔を真横に切った。
 息を呑む暇もなく、春はその場に押し倒された。硬い木床に頭と背をぶつけ、低く呻く。男が何者かの血と脂に塗れた刀身を見せつけるように押し当てるのを見て、春は我武者羅に暴れた。
 大人しく殺されてたまるか。あの男のように惨めな死体(しにてい)など呈するものか。視界を涙で霞ませながら、春はあるものを探した。視界いっぱいに目玉を動かし、道具の居所を求めた。

「暗君の寵児か? 無意味な抵抗は感心しない。潔く死ね」

 男が初めて喋った。硬質で氷のように冷たい声音だった。火の手が上がっているにも関わらず、この男だけは別世界に佇んでいるような雰囲気を纏っている。
 目尻に生温かい感触。涙が零れていることに気づいてはっとすると共に、男が嘲笑するのを察した。唯一自由に動かせる腕をただ夢中に下方へと彷徨わせ、求めていた道具の感触を得る。
 匕首の柄を確と握り締め、引き寄せると春はこれを男に向けて横に引いた。

「っ……小癪な餓鬼め……」

 頬の皮膚を裂いたらしく、一瞬怯んだ男の下から無我で這い出す。皮肉げに笑んだ口元が見えたのも束の間、春は一目散に駆けだした。輝帝の身体の下に転がる小刀を拾い、寝所を後にする。幸い、取るに足らないとでも判断したのか、追手の気配は感じない。
 燃え盛る炎の中、春は疾走した。足が縺れそうになりながらも、喚き散らす文官を越し、外廊に転がる死体を避け、襲い掛かる男たちから上手く逃れ、気付いた時には宮殿の外に立っていた。
 身体中に傷を負っていた。特に酷いのは顔の傷である。案外深かったらしく、顔面を横に走る切口から大量の血液が溢れてくる。顔は真っ赤に染まっていた。

 城下も炎で真っ赤に濡れていた。時刻は深夜であるにも関わらず空は真昼のように明るく、月さえも真っ赤に照らし出し、あらゆるものを燃やし尽くしていた。
 上がる悲鳴。民家は焼け、何かが焦げる臭いや人の焼ける悪臭、砂塵の漂う空中。殺人、強盗に及ぶ正体不明の男たち。
 地獄の業火でさえもここまでではあるまい。城下の様相は誰もがそう思い嘆くような有様であった。

「……酷い」

 春がポツリと零した言葉さえも、業火に飲み込まれて音として自身に返ることはなかった。熱い夜だった。薄い長衣を羽織ったままの姿でも、直に強い火に炙られ、額に細かな汗を招いている。そればかりでなく、流れて留まることをしらない血のせいか、貧血で思考に靄がかかり、平衡感覚が明瞭ではない。足元は覚束ない。
 
(これから何処へ行く?)

 この国に何が起こったのか、春は少なからず察していた。山倖宮での惨状、皇帝の崩御、首都城下の火。
 しかしそれをどうこうする術は持ち合わせていない。宮から放たれ、自由となって身でも何を為すことも叶わぬ非力な自身。それを思い知ってなお、春は再び歩き始めた。

(死んでたまるか)

 母に捨て置かれたあの日、母と共に死にたかったと哭したあの日。その時とは思いを異にして、春は何処かへと向かっていた。
 町を出よう。可能であれば――国を出よう。

 決意した直後、春は見た。裸足で地を歩く痛みを噛み締めながら、血生臭い城下の小道で、それを見た。
 武装した男が、民家の戸口で女に覆い被さり姦淫に及んでいた。
 このような光景を目撃するのは初めてではない。二年前に故郷が軍隊に攻められた時も、隣人の婦人が犯されているのも、幼い少女が強姦されるのも見た。
 ただ、数歩先にいる女の一瞬見えた顔が、あまりにも母に似すぎた。

「ッ――」

 唐突に足の力が抜け、春はその場に崩れ落ちた。腕を地に突くのも叶わず、死に絶えたような格好で伏せった。己の身体から流れる血と土埃とが混ざり合って、地面が不思議な色に変化している。
 母である筈がない。彼女は深い井戸に身を投げて死んだ。
 しかし、車裂きの刑を言い渡されたかのような、重い衝撃だった。母の不義を目の当たりにしたのである。

(もう駄目だ、意識が――)

 視界は完全に霞んで何も見えない。町の惨状すら感じ取れない。聴覚も確かでない。人の悲鳴が届かなくなった。瞼は鉛が載せられたように重い。

(淡国、滅びるか……)

 城下が灰の町になった情景を想像しながら、春の身体は指一本すら動かなくなった。天は彼の命運を見放したように赤く、濡れていた。月さえも顔を背けていた。


 ――淡文歴一二七年、三百年近く続いた淡王朝は大規模な反乱によって滅び、淡最後の皇帝・輝帝は死んだ。山倖宮は焼かれ、首都・健福の都は灰となった。
 そして、宗慶歴一年の始まりとなった。


11/19 導入章

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