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1.SBRレース


 明日の朝刊に載る予定の記事を1つ、父が家に持って帰ってきた。父はイギリス国内の大衆向け新聞社で編集長をしている。社長に近い地位を持つ彼は、ときどきこうして記事を持って帰り、わたしとの会話のネタにしていた。

「セオ、これをごらん。」
「今日は何を持って帰ってきたんですか?」

 手渡されたのは、文章量としては1面トップに位置するような大きさの切り抜き。そして写真が2枚、毛並みの良い馬のものと初老の男性のもの。

「スティール・ボール・ラン?」
「ああ、北米横断レースだ。」
「へえ、大きなレースなんですね……。」
「出たいと思わないかい?」
「へ?」

 ほとんど素の反応をしてしまった、間抜けな顔を父に晒してしまう。父のくすんだ青の瞳は楽しそうに笑っていた。北米の旅を馬と一緒にというのは惹かれるものがある。賞金云々の話と別にしても、乗馬・遠乗り・旅というのはそそられる。

「出られたら、嬉しいとおもいます。でも大学が……。長期休暇ともかぶっていませんし。」

 今年度わたしは大学院を受験する予定だ。考古学研究者となるべく進学したいところ。しかし大学院1年生の新学期とレースが丸かぶりしているのだ。

「なに、大学とかけあってみよう。もしレースを完走することができれば、欠席扱いも吹き飛ぶような名誉が貰えるだろう。……過酷なレースだろうが、やってみないか?」
「やりたい、です。」

 自分の目の奥が熱く燃える感覚がした。突然教えられたレースであるし、長く過酷な旅になることは目に見えているが、参加したい気持ちは強かった。わたしは自覚しているがかなり生への執着心は強いほうだと思う。探検家な教授に連れられて行った遺跡やら遺構は『インディ・ジョーンズ』よろしくかなり危険な場所が多かった。そのおかげか、危険という言葉にあまり抵抗はなくなってきている。
 父は記事とは別にSBRレースのルールブックを渡してくれた。細かいルールなんかが書かれている、あとで読んでおこう。

「あと、あのだな、もうひとつ、お前をこのレースに誘った理由があるんだが。」

 言い辛そうに、父が目を泳がせた。彼はわたしとは目を合わせずに、3枚セットになった何か企画書を差し出す。

「こんな企画をな、会社で立てたんだ。」

 『SBR体験記』と、大きく書かれた企画書。わたしはじわっと嫌な予感がしたが、それは予感に終わらないことも悟っていた。なんでもSBRレース中に新聞でSBR体験記連載をやりたいということだそうで。もう聞かなくてもわかる、そこで誰がレースに参加するかという問題に当たった時、編集長の娘さんは乗馬を嗜んでいますよね、と、誰かが言ったに違いない。わたしはレースには出たことがない、ただ遠乗りを楽しむくらいなのに、そこは問題にはならなかったのが引っかかるが。

「社の企画だから、参加費も含めお前の旅費は全て経費で落ちるんだ、もちろん限度はあるがな。それに協力してくれるということで謝礼が出る、しかも命に関わるレベルのレースだということでかなり高い。」
「かなり魅力的に感じます。」
「そうだろう。プロの騎手を雇うという手もでたんだが、プロは記事よりもレースの順位を気にするだろう?それよりは趣味でやっている娘のお前の方が良いということで、だな。しかもお前には文才がある、社長からもいい記事が期待されているんだ。」
「任せてください。」
「引き受けてくれるか!」

 父から出されたお願いは、2,3日に一度、レースでの出来事や思い出、なにか記事になりそうなことをまとめて手紙を出してほしいという、それだけであった。もちろんポストや手紙を届けてもらえる手段がない時には遅くなっても良いとのこと、できればその旨は先に知らせておいてくれると嬉しいと言われた。
レースの取材は全てイースト アンド ウエスト・トリビューン紙の権利になっているが、参加者の体験記であれば他社の新聞にも掲載可らしい。乗馬と旅行が好きなわたしにとっては、願ったり叶ったりなアルバイトだ。

 スタートは丁度1年後、1890年9月25日、あと1年、レースに向けて自分と馬を鍛えなければいけない。……院試もあるし。






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