trance | ナノ



Blooming Feeling … 16


 ディエゴはシルバー・バレットに跨りながらクンクンと鼻を鳴らし、道を辿り、大河へと出た。広く、海を思わせる河だ。彼は埠頭に立って舌打ちをする。

「大統領の匂いが途切れている。この河を渡ったんだ、それは間違いないっていうのに。」

 少し潮のにおいが混ざった水のにおいがする。セオには嗅ぎ分けられないが、ディエゴはこの中に大統領の匂いを読み取っているらしい。ラームに跨ったままだといつもよりもずっと背が高い。潮風が頬に冷たい。

「一緒にスティーブン・スティールとルーシー・スティールもいたな。彼らの匂いもする。」
「スティール氏って、レースの主催者の?」
「ああ。」
「……大統領と一緒にいるっていう事は、あの人も共謀者なのかな。」
「いや、あの気の弱い男は利用されているだけだろう。」

 あたりを見回しても、大統領らしい姿はない。船に乗って対岸に行っただけならば、橋を渡って追いかければいいのだが。

「大統領が逃げた先に心当たりはないの?」
「大方は分かっている……SBRレースのゴール地点だ、間違いないだろう。」

 ディエゴは川の向こう、このステージのゴールがある先を見つめていた。セオも一緒にその先を眺める。レース参加者の姿は見えない、今ここはレースの先頭なのかもしれない。

「このレースのルートは、遺体のある場所をなぞって作られている。だから、ゴール地点にも大統領がそこに行きつきたい何かがあるはずだ……。」
「ゴール地点、ニューヨークに?」
「ああ。何かは分からない。」

 セオの視界の端にヒラヒラと揺らめくものが入り込んでくる。堤防の鉄柵に細長い布が引っかかっていた。鳥のフンが付いた、手には取りたくないと思う汚れた布だった。普段ならば、何も思わず直ぐに目を逸らしたかもしれない。しかし今のこれには、目が行って離せなかった。

「……船の名前は、ブルー・ハワイ号……。ルーシー・エス……。」
「……なに?」

 布きれに震えた文字が書かれていた。セオはそれを読み上げる。横でどうしようかと頭をフル回転させていたディエゴがすぐさま反応した。

「これに書いているの。」

 セオは鉄柵に引っかかっている布を拾い上げ、その両端を優しく持って広げた。ディエゴがそれに顔を寄せて、書いてある内容を吟味し……すると思いきや、また鼻を鳴らした。

「確かにルーシー・スティールの匂いがする。色もさっき見た服装と同じものだ。」
「ルーシー・スティールがそのブルー・ハワイ号に乗ったと言うなら、大統領もそこにいるはずだよね?」
「間違いないな。対岸にその船は見つけられるか?」

 ディエゴがセオに双眼鏡を投げた。セオはラームの上でバランスを取りながらそれを受け取ると、対岸に並ぶ船たちをじっくりと眺めた。

「……見える範囲にはない。」
「だな。しかし今ならこれがある。ルーシーの匂いが分かれば、大統領の首根っこを掴んだも同然だ。」

 布切れに鼻を寄せ、シルバー・バレットの足元に鼻を向けるディエゴ。彼はルーシーの足取りを掴んだらしく、シルバー・バレットの横腹を蹴った。セオもラームを急かしてディエゴを追う。
 2人は大河に掛かった鉄橋を渡り、河沿いに歩む。5分ほど歩いたところでブルー・ハワイ号を見つけた。ディエゴは堤防から船の中を覗いたが、中には誰もいないようだった。

「匂いが続いている、あの鉄道駅だ。」

 すぐ近くには掘っ建て小屋のような古い駅があった。駅は無人で、車掌すらいない。しかし石炭の煙の匂いはセオにも分かるくらい残っていて、線路を辿って目線をあげると機関車の後ろ姿が見えた。

「あれだね?」
「行くぞ。」

 シルバー・バレットとラームは全力疾走を始める。
 セオは心臓が痛いくらいに脈打っているのを感じた。この先で大統領と遭遇したら、そこで死闘が繰り広げられるのだろう。大統領を殺してでも「遺体」を奪ってやる、という、ディエゴの威圧感はひしひしと伝わってくる。この先ディエゴがどうなるかは誰も分からない。この後起きる出来事が、セオとディエゴの人生にとって大きな転換点になることだけは間違いない。
 大統領は、セオの邪魔が入らなければ、さっきはあのままディエゴを殺していたかもしれない。そう考えると肝が冷えた。あと少し遅かったら、あの腹に空いた四角い傷口が致命傷だったら……。
 しかしセオは同時に考える。女神は自分に微笑んでいるのだと。あの時ディエゴを助けられたのも、今相手にするべき敵を目視できたのも、自分に追い風が吹いているからのはずだ。

「セオ、気を付けてほしいことがある。」
「なに?」
「大統領は『何かに挟まれる』ことで、この世界と隣の世界と行き来することができるんだ。」
「世界を行き来する?」
「並行世界……のことだろうな。大統領に致命傷を負わせたとしても、何かに挟まれて世界を超えられたら、他の世界の無傷の大統領が成り代わって出てきてしまう。」

 セオはなるほどと1人納得する。街中で遭遇した大統領をアトロポスで老化させ殺そうとした時、どういうことか大統領は目の前から消えてしまった。それはセオがその手で大統領を挟んでしまったからだったのか。それまでセオを圧していた空気が一瞬で消えたのも、文字通り、この世界から消えたか。

「大統領を一撃で斃すまで、無限に湧いて出る大統領を倒さなければいけなくなる……っていうことかな。」
「その通り。だからセオ、その手で大統領を殺すときには、後ろに何もないことを確認してくれ。」
「分かった。」
「何かに挟まって逃げようとしたときはそれを取り除くんだ。」
「任せて。わたしはやると決めたからにはやるから!」

 ディエゴもひしひしと感じていた。隣を走るこの女は、大統領を殺すと決めたからには、それを必ず実行するのだと。一緒に走っていて、彼女の強い意志が溢れているのが伝わってくる。この女はどうしてそれほどまでに大統領を殺してやろうと強い意志を持てているのだろう。何も縁のなかった、生まれも育ちも違った、この女が、どうしてそれほどまでに自分の為に命をなげうってくれるのだろう。
 前世などと言われたって、自分には迷信にしか思えなかった。このレースで、この女と出会うまでは。

「ディエゴは危ないと思ったら逃げて。本当に、その命を手放してほしくない。」

 前世の記憶なんてものはディエゴにはない。しかし彼は気づいている、この女は……セオは自分にとって大切な人なのだと。なにかそう思う理由が明確にあったわけではない。ただ、セオを見ていると無性にドキドキして、愛おしくて仕方ない。ディエゴ自身にその理由は分からない、だから余計に混乱する。脳と心が連動していない。これが骨身に染みている記憶だとでも言うのだろうか。

「……ああ。」

 機関車の最後尾の窓に人影が写った。特徴的なヘアスタイルは、間違いなく大統領である。最後尾の扉が開き、そこから誰かが飛び出してきた、否、落ちてきた。機関車から落ちた人は土手の雑草の上をごろごろと転がり、平野にうずくまる。
 またセオはなるほどと納得した。「あれ」が別の世界の住人というものか。

「あれは……ディエゴ……。」

 襟足の長い金髪に緑色のトップス……そこにうずくまっているのは、隣を走っているディエゴと全く同じ男だった。

「あれなんだね。」
「そう、あれだ。……気を付けろ、同じ存在が近づきあうと、くっついて消滅する。」
「消滅?」
「つまりオレとあいつが近づいたらどちらも消えるということだ。」
「それは駄目だよ。」
「駄目だろ?あいつを何かに挟むことができれば、元の世界に戻せるんだが。」
「……なるほどね。」

 この世界のディエゴではないにしろ、今まさにこちらを捉えたあのディエゴも、セオにはディエゴで変わりない。守るべきディオ・ブランドーだから、どちらに消えられても困る。

「なにか布を持っていないか?」
「布?毛布ならあるけど。」
「じゃあそれをあいつにかけてやれ。地面と毛布に挟まれて元の世界に帰れるだろ。」
「わかった。」

 ディエゴはシルバー・バレットの鼻を機関車に向け、そちらに走り出した。セオはラームをまっすぐ別世界のディエゴに向けて走り、その横で止まる。
 別世界のディエゴは地面に膝をついたままセオを警戒しているが、手を出してたり立ち上がったりする様子はなかった。転がった衝撃でどこかを痛めたのかもしれない。敵意を持ったその視線は、まるでセオと初対面であるかのようだ。その視線にセオはちょっとだけ傷つく。

「ディエゴ、わたしが分かる?」
「誰だ?」
「あっちの世界のわたしとはまだ出会えてないのかな……。わたしはセオ・フロレアールと言います。聞き覚えはありますか?」
「……ここはどこだ!大統領はどうした!」

 問いかけに答えてくれない目の前のディエゴにまた心臓を抉られるようだった。並行世界なら、このディエゴはあのディエゴと同じように、セオと知り合っていると思ったのに。並行世界のセオは、まだディオを探して彷徨っているのかもしれない……やはり切ないことだ。

「まだセオに会っていないのなら、あっちに帰ったあと探してあげてください。わたしはずっと貴方を探しているはずですから。」

 ラームに括り付けたカバンから毛布を取り出し、それを広げて目の前のディエゴに向かって投げる。目の前のディエゴは顔を守るように右手を挙げていたが、避ける動作はしなかった。毛布で目の前のディエゴが見えなくなる。毛布はディエゴにかかることはなく、重力に従って下に向かい、くしゃりと皺をつけで地面に落ちた。なんだか目の前の出来事がスローモーションになってしまったようだった。セオはラームから降りて毛布を拾い上げる。捲った下には雑草の生えた地面しかなかった。

「並行世界……本当にそんなものがあるのなら……。……どこかでわたしは幸せになっていたのかな……。」

 また現れるかもしれない別世界ディエゴを元の世界に返すために、セオは毛布を拾い上げてカバンに入れ直した。機関車が遠くなっていく。セオは再びラームに跨ると、全力疾走で機関車を追い始めた。





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