trance | ナノ




[ 額に暖かい優しさ ]



2月13日 AM 8:00 ワシントンD.C
 セオ・アルマーズの自宅にて


 セオは少しばかり焦っていた。明日は男も女も楽しみなバレンタインデー、だというのに、今年は何も準備が出来ていない。ついこの間オセロットに会ったとき、貴女の手料理が食べたいですといわれたので、じゃあバレンタインに合わせてシュトレンでも焼いてやるかと思っていたのだが。
 彼女は今朝から熱にうなされてベッドから出られないでいる。
 建物自体は大きいが、それぞれの部屋は1DKという狭いアパート。州内に実家はあるが、仕事の都合上一人暮らしをしているセオは、この狭い部屋に1日引きこもっていた。シュトレンどころか料理が出来ないし、今日は固形の栄養補助食品しか口にしていない。両親は忙しいだろうから助けてもらうのは気が進まない。1日ぐったりしていれば良くなるかと思えば、そうでもないので、職場にはついさっき、明日も休ませてくださいと連絡を入れておいた。
 セオの家どころか部屋番号まで把握したオセロットは、明日ここを訪ねてくるだろう。朝一番か、仕事終わりを狙っての夕方かは分からない。朝だったら確実に間に合わないし、夕方でもどうなるか。

 ごんごんごん!!

 あーだこーだと唸っていると、鉄製のドアが乱暴に叩かれる音が耳に飛び込んできた。狭い部屋なので音はダイレクトに響いてくる。痛む頭に悪い。

「セオさん!起きてますかー!」

 成人男性にしてはちょっと高めの声、セオの悩みの種ことオセロットだ。

「風邪引いたって本当ですかー!!」

 郵便受けから中に叫んでいるのか、やけにクリアに声が届いてくる。上半身を起こしてドアを見ると、思ったとおり、郵便受けの蓋が開けられて部屋の外の照明の明かりが差し込んでいる。

「風邪引いたよ。」
「看病するので開けてください!!」
「頭に響くから声を小さくして欲しいの……。」
「すみませんっ。」

 郵便受けの蓋が閉まり、明かりが入ってこなくなる。セオはのったりと起き上がって、ふらふらと玄関に向かった。玄関には、職場に履いていっているヒールの低いパンプスと、普段はいているマウンテンシューズが並んでいる。少し離れたところに、雑に脱ぎ捨てられたサンダルが散っていた。鍵とチェーンを開け放し、ドアを少し開ける。すると外からオセロットが、待ってましたとばかりにドアを開けて飛び込んできた。

「セオさん!」

 どうしてか感極まっているオセロットは、玄関で棒立ちになったセオをぎゅーと抱きしめた。そんなに感激するほど久しぶりなこともないのに。と、思ったが、オセロットは今みたいなのがデフォルトだったことを忘れていた。

「CIAに寄ったらセオさんが居なかったので、適当に歩いてる人を捕まえて聞いたら風邪で休んでいると……。どこが調子悪いですか?私、マーケットで色々買ってきたんで看病します!」
「それはありがたい。」

 風邪が移っちゃうから遠慮するよ、仕事で疲れてるオセロットに申し訳ないよ、そんな言葉は今のセオには浮かばなかった。具合が悪くてもお腹は空くし、正直に誰か看病してくれる欲しいと思っていた。だから本当にありがたい。
 オセロットはセオを放すと、スタスタと部屋の中に入り、ローテーブルの上にどかんと荷物を降ろした。オセロットがセオの部屋に入るのは初めてで、彼は10秒ほどこの部屋を見渡したが、直ぐに自分の使命を思い出し、フンと鼻息を荒く吐いた。
 セオはオセロットにお構いなく、再びベッドに腰掛けて背中を丸める。

「チキンスープとリゾット作らせてください!あとオレンジも買ってきました。りんごとレモンと……あとメロンもありますよ!トライフルにしましょうか?ヨーグルトは?オートミールと……コーラ……は無理ですよね。レーションも私の予備がありますが、これは不味いので却下ですか?」

 元々オセロットはセオに対して献身的なところがある。それがだいぶ加速しているようだ。3重にされた紙袋の中には、セオが何を食べたいと言ってもいいように、と、いろんな食材が詰まっていた。多分、この家の冷蔵庫には収まりきらない。

「ウウン……リゾットとオレンジ……あと水。」

 全部聞き取れなかったセオは、かろうじて聞き取れたもので答える。

「はいっ!じゃあまずお水です!」

 素早く台所からコップを発見し、水を汲んでセオに差し出すオセロット。セオはテーブルの上に放ってあった市販薬を取り出して口に含む。水を飲むのが億劫だが仕方ない、無理やり喉に流し込んだ。

「セオさん、病院は?」
「行く元気が無かった……。」
「明日まで続くようでしたら、ちゃんと行かなきゃダメですからね。」
「分かってます。」

 セオはベッドに横たわり、まだ自分のぬくもりが残っている布団にくるまった。横を向くとオセロットの姿が目に入る。彼はコートを脱ぎ捨ててセーター姿になっている。軍服を着ている時よりも、筋肉のつき方がはっきりわかる。たくましい後ろ姿だ。

「んあー……オセロット……。」
「はい?」

 聞こえないくらいの小さい声で呟いたつもりだったが、狭い部屋では関係なかったらしい。オセロットはオレンジを切る手を止めて、セオのベッドに駆け寄った。

「なんでもない。」
「辛かったら言ってくださいね。」
「はい。」

 今のセオとオセロットの関係は、前の職場の同僚というのが正しいのだろうか。と、セオは少し悩んでいる。多分オセロットは、セオのOKを待っている状態なのだ。セオがオセロットの理想する意味で自分を好きになってくれるのを待っている。セオとしても、オセロットは聡明で頼りになるし、何より、自分を大切に思っていてくれるところを好ましく思っている。恋人になってもらうには充分すぎる人だ。それでもよろしくと言い切れないのは、まだ彼の素性が全て分かっていないところにある。オセロットはスパイだった。今こうしてセオと接しているのは、任務ではないと言い切れるだろうか。こんなことを考えては彼に失礼だという気持ちもある。しかしどうにも、踏ん切りがつかないのだ。

「オレンジが切れたので置いておきますね。」
「ありがとう。」

 オセロットはテーブルを動かしてベッドに近づけ、できるだけセオの近くにオレンジを置いた。

「リゾットはもう少し待ってください。」
「うん。」

 鍋は弱火にかけられていて、ぐつぐつという音が聞こえてくる。オセロットは2人がけのソファに腰をおろし、フーとため息をついた。

「セオさん、2人用のソファがあるってことはもしかして恋人が?」
「普通に寝転がる用だよ。わたしのストーカーをしてたら恋人なんていないことくらいわかるでしょ。」
「念のため洗面所見てきていいですか?」
「いいよ、あとでカメラと盗聴器のチェックはするから。」
「……。」
「悔しそうな顔をしないの。」

 さすがにそんなものを仕掛けるつもりはないだろう、と、思いたい。それでもセオの恋人の有無をしっかり確認したいらしいオセロットは、ちらっと洗面所を除くと、満足そうに頷いた。

「今度来るときは私の歯ブラシを持ってきます。」
「当分そんな機会はないと思うけどね。」
「そんなぁ。」

 オセロットは背もたれに身体を預け、唇を尖らせる。彼は何か面白いものがないかと部屋を見渡し、床に落ちていた昨日の新聞を拾い上げる。

「オセロットさ……。」
「はい?」
「明日、シュトレン作るって言ったけど、こんなんじゃ無理だと思う、ごめんね。」
「お、覚えていてくれたんですか?」
「覚えてるよ。」
「ああっ!それだけでも嬉しいです!もちろん、明日は無理だって分かりますし、作ろうとしたら私が止めます。」
「ありがとう……。」
「セオさんがはやく元気になってくれるのが一番です。」

 オセロットは身を乗り出し、セオの額をいい子いい子と撫でる。セオはそれが照れ臭くて、布団を頭まで被ってしまった。

「1日早いですけど、私から贈り物です。」

 彼は懐から、金色のリボンがかかった細長い黒い箱を取り出し、セオに見せる。

「今年も薔薇じゃないのね。」
「ええ。私が開けてもいいですか?」
「お願いします。」

 オセロットは箱にかかったリボンを丁寧に外して箱を開ける。そしてセオに利き手とは逆の手を出させ、箱の中身を出して見せた。

「……時計?」
「はい!」

 黒い本革のベルトに、文字盤は白で、縁は金色の時計だ。シンプルに見えるが、文字盤の中右心に小さな宝石……色からしてルビーが付いている。オセロットはそれをセオの腕に巻きつけて留めると、その腕を満足そうに眺める。

「『あなたの時間を束縛したい?』」
「そこは『あなたと同じ時を刻みたい』ということで。」

 にまにまと笑みを浮かべるオセロット。時計という贈り物が意味深長で、どういう意味なのか知りたい。と、言っても、今セオとオセロットがお互いに発した言葉がそのままオセロットの答えなのだろう。

「セオさん、時計をお持ちでなかったようなので。」
「よく見てるね。」
「もちろんです!……それ、肌身離さずつけてくださいね。」
「肌身離さず……ね、わかった、危ない仕事の時意外はちゃんとつけるよ。」
「ありがとうございます、セオさん大好きです!」
「わたしこそありがとうねえ。……鍋の中身、どうなったかな。」
「見てきます!」

 オセロットと話すことは支障になったかといえばむしろ逆で、少し楽になったと思う。にこにこと明るい彼に当てられて、セロトニンでも分泌したのかもしれない。
 鍋の中身を確認し、味見を済ませたオセロットは、ヨシ、と一人呟き、一人暮らしらしくスカスカな食器棚の中から、適当な器を取り出す。湯気がふわふわとあがっているリゾットを器に移すと、近くにあった木製のトレイに、リゾットとスプーンを並べて置き、ローテーブルまで運んだ。
 料理が出来るなんて意外だな、なんて、セオはオセロットに対して思ってしまう。彼は料理の経験は皆無で、もし経験があったとしても、食べられるからいいだろうレベルのものかと思っていた。それがむしろ、香りからして大成功の気配しかしない。

「あーんしましょうか?」
「……そ、そこまでは弱ってない。」

 オセロットに取られる前に、セオは慌ててスプーンを取る。不用意に口に運んだらやけどしそうな暑さが、口元に近づけただけでわかる。念入りに冷ましてから口に入れると、じわっと旨味と暖かさが口から脳まで伝わった。美味しい。熱にやられていると、大抵物の味がわからなくなるのだが、今日はよくわかる、美味しい。ブラックペッパーとチーズ、そしてトマトを吸った麦が美味しい。食べ慣れないはずの、ちょっと混ざったライスも柔らかく膨れていて、しかしするっと喉を通った。

「おいしい。」
「もっと食べられそうですか?まだありますよ!」
「ありがとう、でも今はこれくらいでお腹いっぱいかな。」

 美味しくてぱくぱくと匙を進めるが、顎と腕がいつもより疲れる。それでも頑張って手を動かして完食。満足。そして身体が暖かい。

「満足。」
「食べる元気があってよかったです。」
「でも疲れた、寝る……。」
「ゆっくり休んでください。心配なので一晩ここにいてもいいですか?」
「お願いします。」
「え。」

 スパイ時代のセオを知るオセロットにとって、今の彼女の返事は、意外、の一言であった。人当たりはよかったが、精神的に私的な領域には誰も立ち入らせなかったアルマーズ少佐が、風邪で弱っているとはいえ、人を家に泊めるなど。女同士であってもそんなことをするタイプには見えなかった。素のセオを少しずつ知ってきていたが、これはまた驚いた。そう思うとこの部屋に上がれたのも奇跡のような部分がある。

「い、いいんですか?私、男ですよ。」
「オセロットはわたしの嫌がることはしないでしょ。」
「じーん……。」

 信頼されているってすばらしい。オセロットはもちろん「そんな」気などない。その点を、何を言わずともセオにわかってもらえているのが嬉しくて仕方なかった。現にセオは満足で安心しきったような表情しながら、再び布団に潜っている。

「でも寝るところがソファしかないの。ストーブは入れてるけど毛布だけで大丈夫?」
「十分です。それにここならセオさんの寝顔がじっくり見られますし。」
「……ふん。」
「ごめんなさい!そっぽ向かないでください!」

 オセロットは慌てて彼女の布団を軽く引っ張って謝罪したが、 セオは寝返りを打ってオセロットから顔を背けるようにしたきり彼に顔を見せなかった。しかし彼女は布団の中で自分の腕に巻かれた時計を見る。体温で温まった皮のベルトが暖かい。今年も素敵なものを頂いてしまった。今年なら素直に笑顔でありがとうと言える。元気になったらちゃんとお礼をしなければ。セオはオセロットの嘆きを遠くに聞きながら、再び目を閉じた。








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