小さな幸せを君に
人は、彼女を狂人と呼ぶ。
確かに、彼女は狂っていた。人間として、遥かに超えた存在であった。
徹底的に、決定的に別世界の人間だ。
そして、情緒不安定。
恐らく、無垢で無知で無邪気で無情。
彼女には、何もない。
人が彼女を狂っていると言うのならば。
俺は、彼女を無と呼ぼう。
「ちょっ・・・・・・超絶っ・・・・・・!! 私は幸せ者です! 風来さん!」
目の前で、頬を紅潮に染め上げ、口角が緩みきっている彼女の名前は平城夜美。
何色にも染まりそうにない程真っ黒な髪は高く一つに結われていて、彼女の動きに合わせてゆらゆら揺らめく。
そんな彼女が俺を見上げ、大きく潤んだ瞳を向ける理由は、明確なのだけれど、この上なく不明瞭だった。
「・・・・・・たかが、名前を呼んだだけですよ?」
「されど名前ですよ! え、えへへへー・・・。家族以外に、は、初めて名前呼ばれちゃった・・・・・・。私なんかを呼ぶために、私なんかの名前を人間が、う、へへ。ふへへへ・・・・・・」
ポロポロと彼女の目から雫が頬を伝い始める。
彼女のことを知れば知るほど、彼女が別次元の人間であると再確認される。
彼女の言葉を推測するに、彼女は家族以外に名前を呼ばれたことがないのだろう。
十五、もしくは十六年生きてきた今まで、一度も。
一度も?
まさか。きっと彼女が忘れているだけだろう。
そう考えたかったのだけれど、彼女の涙を目の当たりにしてしまうと、それは勘違いなのではないかとさえ考えてしまう。
異性に、名前を呼ばれることは、確かになかなかないことでしょう。
恋愛小説でも、どんなヒロインやヒーローでも、初めは驚くでしょう。
しかし、誰一人として涙を流す者はいなかったような覚えがある。
俺の、勉強不足なのかもしれませんが。
なんで、そんなことも分からないのか。
そんなことも体験していないのか。
それが、どれだけ悲しいことなのか。
「夜美」
「ふ、え?」
同情なんてしない。
何も知らないならば、俺がたくさん教えるまでだ。
「夜美」
「ち、ちょっ、ふ、風来さん・・・・・・?」
有り触れた喜びも。
有り触れた悲しみも。
有り触れた怒りも。
有り触れた楽しみも。
正しいことも、間違ったことも、幸せなことも、不幸なことも。
別次元の喜怒哀楽ではない。
道端にに咲いている花のように、ありふれている感情を。
今から、遅れた分を取り返すくらいに取り戻すまでだ。
「夜美、夜美、夜美、夜美、夜美、夜美、夜美」
「う、うあぁああああああああああああ!!」
とにかく、名前を連呼していたら、夜美は喉を大きく震わせたような声を発して、俺の背を向けて何処かへ行ってしまった。
どうやら、幸せには慣れていないらしい。
「さて、どうしますか・・・・・・」
流石に、あんな姿をみてからさぁ帰ろうとはなれない。
でも、わざわざ後を追いかけるのもしつこいでしょうし、だからといって、あんな顔を林檎みたいに真っ赤になった彼女を視界に映して、いい気分にもなれない。
結局、俺は彼女に同情しているだけなのか。
「はぁ・・・・・・ん?」
思わず漏れた溜息。そして、ふと今までいた河原越しの道路から見下ろした視線の先に、なかなか興味深いものを見つけた。
それは、気休め程度の幸運だった。
だけど、その程度が丁度いいのだ。
**
翌日になってしまった。
体が異常に重い。久しぶりにムキになってしまった気がする。小学生ぶりかもしれない。
重い上半身を起こして、登ったばかりの朝日を細めで眺めていた。
こんな風景も、彼女は誰かと見たことあるのだろうか。
そうならば、どれだけいいことなんだろうか。
・・・・・・感傷に浸かっている暇はない。今はとにかく家に帰って、風呂に入って学校に登校しなければならない。
収穫物をカバンにしまってしまおうとソレに手を伸ばさそうとすると、道の方から自分の名前を呼ぶ声が声がした。
驚いたような、心配しきったような、そんな声だった。
ふと顔を上げると、そこには高く結われた髪をぼさぼさになり、着ていたセーラー服や髪には黒い何かがコベリ付いている、昨日の姿であれど、変わり果てた彼女の姿があった。
夜美は慌てて俺に駆け寄り、またポロポロと涙を流す。
「よ、よかったぁ・・・・・・無事、だったぁ・・・・・・!!」
「・・・・・・・その姿は・・・・・・」
「ふ、風来さんが昨日から帰ってないって噂聞いて、探して、喧嘩売られて、買って、探して・・・・・・そんなことより、本当に、何もなくて、よかったです・・・・・・!!」
昨日は、歓喜の涙。今日は、安堵の涙。
一喜一憂が、激しい。
本当に、情緒不安定だ。
目をこすって、嗚咽を漏らす彼女の頭に、そっと手を伸ばし、そっと頭に触れた。
一瞬、びくりと震えた彼女だったが、ゆっくりとなで上げると、夜美は堰を切ったように、洪水のように涙が溢れ出す。
「心配かけてすみません。規則を破ってしまいました」
「い、え・・・・・・! ひっく。あたひくっ! しはっ、うえっ。ふうらいしゃんひくっ! が、ぶっ、じで、よかっ」
「夜美、これを差し上げましょう」
「えっ・・・・・・?」
カバンにしまおうとしていたそれを、彼女に差し出した。
真っ赤に濡れた瞳はまん丸に開かれ、俺の手のひらを凝視する。
四つの四葉のクローバーを、見つめていた。
「な、・・・・・・で?」
「俺からのプレゼントです。安上がりですが、今の貴女にはこれが一番喜ぶかなと」
「ま、まさか、これを探すために、こんなとこにいたんですか・・・・・・?」
震えた声で、夜美は周囲を見渡す。
クローバー畑は、あちらこちらに広がっていて、それこそ一日二日で全部目を通すことはできそうにない。
「あはは。でも、俺にかかれば一日で全範囲探し出すことができますよ」
「わ、私なんかのために何してんですか!? 風邪ひきますよ!? 変な奴に絡まれたりしたらどうするんですか!」
「一日くらい無茶しても、体には支障はないですし、絡まれたらその時はその時の最善の対処をするまでです」
「でも!」
「それに、俺は貴女にこれをあげたかったから頑張ったんです。感謝も心配もいりませんから、努力は汲み取ってください。今回の努力は、貴女の為に行った努力です」
「・・・・・・でも」
「あと、自分を過小評価しないですれませんか? 俺は、そんな小さなものの為に頑張ったというつもりですか?」
「そ、そんなことはないです!」
「なら、受け取ってください」
有り難迷惑かもしれないと、少し恐れたけれど。
彼女が俺の手のひらのクローバーを全て彼女の手のひらにおさまった時に、肩の力がどっと抜けていった。
そして、彼女はそのクローバーがおさまった手のひらを大切そうに包んで、彼女の胸のにあてがった。
そして、見たこともない程、綺麗に笑った。
「ありがとうございます。風来さん」
心臓が高鳴ったと同時に、何かがブツリと切れた音がした。
傾く体に、薄れていく意識。
クローバー畑に横たわった俺、重いまぶたが閉じられる中、驚いた夜美の表情を目にして、こう願った。
またあの笑顔がみたいな、と。
End
**あとがき
夜美と風来の甘というリクエストをいただきましたが、若干シリアスになってしまいましたすみません。
毎回、夜美が狂っている感じになっているのですが、それは通常運転と思って頂きたいです!
風来に関しては、アイツはなんでも死ぬ寸前まで頑張るやつですから、ぶっ倒れるなんてざらだったと思います。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいのですが・・・・・・大丈夫でしょうか? 書き直しいつでもうけつけます!
彗様。素敵なリクエストありがとうございました!
prev / next