カゲプロ | ナノ





 空言人。
 それこそ彼にぴったりの言葉だった。

 数日前、恋人であるカノが死んだ。不思議と心は凪いで、悲しみは覚えなかった。
 やっぱりか。そんな既視感のような感情が湧いて、俺は息を吐く。懐から古いジッポと煙草を取り出した。ジッポが着くか、手で覆って試す。もう何年と着火されなかったそれは、けれど確かに橙の色を灯した。
 数年振りとなるジッポの形はどこか小さく持ち辛かった。
 思えば、二十歳になるのと同時に始めた煙草は半年と待たず、鼻の利くカノに見つかってしまい早々に止めてしまった。
 カノは存外潔癖症な嫌いがあり、特に煙草と酒は本当に嫌いであった。アルコールに弱かった俺は成人を意識するように煙草をたしなんでいたのだが、カノはそれを見つけると決まって俺に水をかけた。
 俺は勿体ないと憤りながら、早春の水の冷たさに危機感を覚え止めたのだ。
 そんな彼がいなくなった今、俺はようやく煙草を取り出している。もう大分古い、口をつけることを躊躇ってしまいそうな一品。
 煙草を口に加え、そっと離す。口に含んだだけで広がる苦味に顔を歪め、やはり後ろから水をかけられそうな感覚に身を震わせた。
 煙草を指で摘まんだまま黄ばんだ煙草の箱に視線を落とす。
 煙草はもっと白い箱に入っていた。苦味は気持ちよかった。魅力的だった。
 なのに、どうしてか今は薄汚れた臭く苦い筒にしか見えない。敢えて吸おうとは思えなかった。
 虚しく灯るジッポの炎を煙草の箱に近付けると箱は濃い色に包まれ、やがて橙を宿す。俺は橙が移るのを見ると箱を手放した。



「人間関係なんてうんざり」

 どこかの高層ビルの隙間で少年は笑った。綺麗な笑顔はどこか嘘臭く、脆いもののように思える。
 茶色の柔らかい猫毛をビル風が煽る。びゅう、と靡く髪に合わせるようにカノはフードを目深に被った。
「対人関係なんて疲れた。愛想笑いが貼り付いて、本当の自分を見失うだけだった」
 震える腕を細い腕で押さえながら強がりばかりを吐き出す。素面で生きるのには繊細すぎた少年が生き残る為には欺瞞だろうがなんだろうが吐き続けるしかなかった。
 紫の唇から紡がれる音は悲鳴と似た色で染められている。繊細すぎる少年の心を、次は罪悪感が蝕んでいるのだ。
「……どうして僕らは理解し合うことすら儘ならないのに共存することしかでしか社会に認められず生きていくことができないのだろう」
 生きていくことすら儘ならない。カノは悲痛な面立ちでいう。
「そんなの、」
 俺にだって分からない。お前を理解することは出来ないし、認めてやることもできない。
 でも、それでも俺達はそのルールの中で生きていくしかないんだ。
 どんなにお前の言うことが正しかったとしても、それは子供の駄々のような、どうしようもないもの。分かった振りをして受け入れなければならない。
「少数は、多数には勝てない。敗者は受け入れるしかない」
 異端は淘汰されなければならない。適者生存。優勝劣敗。
 そんな真理を受け入れることすら出来ない正義感が嘘に押し潰されそうになって、喘いでいる。
 くしゃりとカノの顔が歪んだ。
「辛いね」
「あぁ、辛いな」
 胸は痛いし足は震えて声だってまともに出やしない。一年中息が詰まってる。それでも、俺は生きてる。お前だって生きているではないか。
 人並みに生きるのは難しい。人波に呑まれるのだって簡単なことじゃない。
 潔癖そうな人間も結局は汚れるしかない。綺麗なままじゃ、生きられない。
 お前だって汚い。だから押し潰されそうになってる。汚くて穢れてて辛くて苦しくて、意味なんて何も見出だせやしない。それでも生きることが全てなんだ。
 けれど、カノはそうではない。キャパシティを超えた心が受け入れきれずに音を上げた。
「僕は、苦しむくらいなら死んだ方がましだ」
 カノの指が腕から離れ首に回され、ぎゅっと絞めあげる。膝が折れ、地に尻をついた。ぺたりと座り込んでしまったカノは首に手を当てたまま俯く。
「わからないよ、りかいできない。しにたくない、いきたい、でも、いきられない。ぼくらはひとりなのに、わかりあえっこないのに、どうしてこんなにもくるしいの?」
 ぽつ、ぽつり。アスファルトが濃く染まる。呼吸が不規則になり、肩が跳ねているのを視界に捉えるが指摘はしない。見なかったことにしてしまおう。これが汚い処世術だ。
 偽善と欺瞞で、吐き気すらしてくるが止めることも出来やしない。薄っぺらい舌先が声帯に鞭を打つ。
「鼠が檻の中にいてさ、十匹いたとしてお前は全てを個々と判別できるか」
「……わからない」
 真意を図るように、恐る恐る顔を上げたカノは首に手を掛けたままの間抜けな格好で言う。カノが顔を上げたことに俺は息を吐く。
 言葉が通じないわけじゃない。それだけでも幾らか気が楽になった気がした。だから続ける。
「そう、わからないのが普通だ。きっと俺達を創った神様ってやつも俺達を全部区別できるわけじゃない」
 カノの表情には不理解の色が広がる。俺にだってわからねぇよ。
 強引だろうとなんだろうとカノの関心を引けるならそれでいい。それで正しいはずだ。正しいと言い聞かせる。
「どんなに異なっていようと大から見たら小なんてないんだ。個性や個人なんて個体の前じゃ付属品にしかならない。付属品の一つ一つを手にとって調べることもしない。どれとどのパーツが整合か不整合か、その程度の話なんだよ、たぶん。
 細かい差異を見極めるには電子顕微鏡でも用意するしかない。けど、わざわざ持ってくるわけがないんだ。だって遠目で見たら俺達はみんな一緒で、お前だって面倒臭いのを我慢してまで道端の砂利の整合なんて確かめたりなんかしないだろ? 俺達は所詮そんな存在なんだ。
 だけどさ、小から見たらそんな些細な整合が存在を左右して誰かとくっつかなければ消えてしまう。きっとさ、怖いんだよ。一人で勝手に消えちまうなんて。お前もそうだろ?」
 必要としてくれればそれでいい。理解が追い付かず固まったままのカノをいいことに距離を詰める。そして首に回されたままのカノの手を握り、首から離した。
「ま、簡単に言うとさ、俺も寂しいんだ。だから、死んだ方がましとかそんな哀しいこと言わないでくれ」


 それから泣き出してしまったカノを抱き締めながらずっと色んな他愛のない話をして、俺達は付き合うことになった。カノの溢れた重さを軽い心に仕舞い、地に足を付けるとカノは心なしかすっきりとした面立ちとなっていた。
 その姿があまりにキツく胸を締め付けるものだから堪らず、××してる、と口走ってしまうとカノは顔を真っ赤にしながらしがみついてきた。
 けれどカノは決して××してるとは返さなかった。
 今思うと、二人の間に××があったのかは甚だ疑問である。同情から生まれた相身互いの関係で、半ば泣き落としに近い、俺のエゴだったのかもしれない。同病相憐む、なんて本心からカノを思いやるならあの時あの場所で俺はカノを引き留め、中途半端な夢だなんて見せるべきではなかった。
 辛かったのはきっと何時もカノの方だ。
 そんなカノを思えばこそ、俺の選択は間違っていたのかもしれない。けれども、俺は何度でも同じことを繰り返すのだろう。
 カノがあの時一瞬だけ見せた安堵のような表情が未だに忘れられない。何度だって見たくなる。あの顔に会えるのなら、なんだってしてやろうと思えた。
 ××なんだろうか、××でいいのだろうか、××だったらいいな、なんて。

『僕は今年二十歳になるわけだけど、正直、大人になるのが怖い。シンタローくんではないけれど怖いだらけだ』
 気が付けば何年も隣に寄り添っていた。時が経つのに気が付かなかった。
 カノが二十歳を迎えると俺はカノに指輪を渡した。酒も煙草も嫌いだったカノに渡す二十歳のプレゼント。悩みに悩んで、軽くなくなってしまった心の一部を返した。カノがそれを嬉しそうに指にはめるのを見て、心がすっきりと軽くなった。成る程、道理でカノがあの日、軽かったわけだと。
 また、俺が二十歳も後半に差し掛かる頃になるとカノはカレンダーを頻りに見つめるようになる。それから驚いたように、このまま行くと十年目になるんだねと決まって呟くのだ。
 時が経つのが早い、なんて話ではなかった。カノはもうこの関係を慢性的なものかもしれないと疑っていた。当たり前に成りすぎて、日常に溶け込みすぎて、怯えた。指輪の重さにカノは怯えていた。けれど、その重さを取り除くことの残酷さが認識できないほど馬鹿ではなかった。
 恐怖と良識に板挟みにされ四方を塞がれる様は、奇しくも二十歳を迎えたカノが口にしていた『怖いだらけ』の象徴ようだった。

『辛いなぁ、××って』
 ぎゅっと胸が苦しくなって、これが××なのかと思ってたけど、全然違った。

 カノが死ぬ前日の夜、カノは一人、そう言っていた。結局、十年目は来なかった。

『××がこんなにも、切ないわけがない』

 痛いのでも苦しいのでも重いのでもない。重いのも心地好かった、けれど、それ以上に耐えられなかった。耐えきれなかった。
 カノの心は硝子細工のように繊細だった。

 外に出て、久方ぶりの街を歩いたが、あの日の高層ビルはもうなかった。代わりに別の高層ビルが建てられていた。
 完成図がマンションであること、完成の年がちょうどカノと付き合い出して十年目の節目であったこと。もしかしたら、たった数日前の自分であったのなら此処に暮らすことを考えたかもしれない。
 尤も、今となってしまえば全て仮定の話となってしまうのだが。今の自分が此処に移り住むことは決してあるまい。
 カノという人間と真っ直ぐ向き合うには傷付きすぎていた自分は最終的に傷付くのを恐れるばかりで結局、最期の最期でカノを引き留めることが叶わず、カノは死んでしまった。
 綺麗な死に方だった。自分には絶対に真似できない、潔さがあった。
 けれど、俺は否定してやりたい。やはりお前は死ぬべきではなかった。生物にとって生きることは全てなんだ。俺にとっての生はいつの間にかお前と生きることと成り果ててしまっていた。
 だからなのか、今は寂しいというより、ただただ物足りない。重さはもうないのに、心は浮いてきやしない。悲しみよりも先に虚無感が押し寄せてくる。
 生きる意味がもう何も見出だせない。今はもう何を見ても決して面白いとも何とも感じないであろう。ぽっかりと空いてしまった穴にビル風が入り込むようだ。
 胸がぎゅっと締め付けられて、嗚呼、確かにお前が言う通り切ない。けれど、この感情は何度だって抱いた。お前が傍にいるなら何度でも抱けた。
 馬鹿だなぁ、嗚呼、馬鹿だ。お前はこんなことも知らなかったのか。

『くるおしいほどにいとおしくて、はりさけそうなくらいせつない』

「人はそれをアイって呼ぶんだ」


コンクリートジャングルに沈んだ恋人






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