カゲプロ | ナノ





 稚拙な指先が頬を掠め、長い爪が戸惑うようにさ迷う。血が通ってないのではないかと疑いたくなるような蒼白い顔は色の悪い唇を戦慄かせている。
 目の色は怯えを孕んだ茶色。赤みに欠けた色合いは何処か疲れを感じさせた。未だにさ迷っている手を掴み、抱き寄せる。
「ここにいるッスよ」
 小さな頭を肩口に押し合て数回撫でてやると背中に腕が回される。シャツをくしゃりと強く握られ、カノは嗚咽のようなものを漏らす。肩が濡れた気もするが構わず、カノを抱き締めたままベッドの側面に寄りかかった。

 過去を詮索したら、きっとカノは壊れてしまう。
 最初にそれを感じたのはカノの笑顔を見たときだった。カノは今のような自然な笑い方ではなく、酷く脆い笑い方をしていて、それは笑うのに慣れていない不器用な笑い方だった。半ば泣きそうな顔をしていたことを多分本人は気付いていない。
 虚ろな瞳が光に満ちていくのと同時に怯えが混ざるようになったのは、ちょうど施設の女の子のお母さんが亡くなったときだった。カノは幸せからどん底に突き落とされる恐怖を知らない。どん底だけを知って生きてきたのだろう。だから日常の隙間から覗き見たどん底の姿に可哀想なくらい怯えた。
 それから過去を乗り越えるために付けたはずの仮面はいつしか過去から目を逸らすための仮面になっていた。気が付けば、カノは本心を嫌うようになっていた。本心を見せなければ傷つかないで済むと思っているのだ。そんなわけがないのに。
 その証拠に本心をひた隠しにすることで生まれたストレスにカノは勝てない。
 時折感じさせられる弱いカノの姿。俺だけに見せられる、俺だけが知っているカノの姿。
 救いたいと思っていたはずなのに、その姿に優越感を感じている自分がいた。

「この間、バイトで配達に行ったんス。隣町の庭に薔薇が咲いてる綺麗な家」
 助けになりたいと思った気持ちに嘘はなかった。けれど甘い誘惑が鎌首をもたげ、独占欲が手を引いた。
「年配の女性が一人。夫と二人暮らしをしてるって言ってたッス。話してるうちに盛り上がっちゃって、帰り際、薔薇を一輪、差し入れにって言われて」
 カノは静かに顔を埋めながら話に耳を傾ける。
 普段なら詰まらないと一蹴されてしまう話でも、今のカノはそれを求めていた。声を求めていた。
「じゃあ小さくて赤いのをって頼んだら、」
 くい、と服を引かれ言葉を止める。カノはじっと此方を見つめていた。
 先ほどまでの弱々しい光は影を潜めつつある。それを惜しく思う自分を叱咤しながらカノが正面にくるように抱え直す。
 微調整をするように身を捩り、真っ正面から向き合うとカノはぎゅっと首に抱きついた。細い腕が首の後ろへ、後頭部を手で引き寄せられる。カノの薄い胸が顔に当たり、此方もカノを抱き寄せるように背中に手を回した。
「……こうすけの話はあいかわらずつまらないね」
「日常的って言ってほしいッスね」
 戻ってきた。だんだんと芯のある口調へと変わっていく。
 そうしたらカノはまた暫く近寄ってはこないだろう。猫のように気まぐれで、それでいて一歩後ろに足を引いてしまう。
 このように甘えるのはストレスが限界まで貯蓄された時だけ。いっそ溜まる前に、頻繁に甘えてくれればいいのに。だが、それを告げるには今の関係はあまりに美味しい。崩してしまうのを惜しんでしまうくらいには。
 そんな葛藤を知ってか知らずか、カノは頬を擦り寄せる。
「ねぇ、」
 甘い声音。うっとりと聞き入ってしまいそうなくらい、甘美で緩やかな口調。思わずごくりと喉が鳴ってしまいそうなのを堪えながら、極めて平静を装う。
「なんスか」
「小さくて赤いのはどうなったの?」
 人の気も知らないで。子供の好奇心にも似た無邪気な言葉が紡がれていく。
 散々詰まらないと言った挙げ句にこれか。けれど、怒りはしない。何故ならそんな気まぐれなところも好きだからだ。
 盲目と言われても仕方がない自分のそれに苦笑いを浮かべながら返す。
「詰まらなかったんじゃないんスか」
 意地悪、だったかもしれない。カノは少しだけ言葉を詰まらせた。
「……詰まらないけど、気になるから聞いてあげるよ」
「わがままッスね」
「うん、幸助だけ特別」
「どこまで本気?」
「君が僕から離れるまで」
「じゃあ、一生離さない。離してあげない」
「うん、ずっと一緒にいよう」
 白々しい言葉の羅列。だけど強く抱くと嬉しそうにしがみついてくれる。もうそれだけが事実でも良いんじゃないか。本当にこのままカノをずっと離さないで入れたら、きっと幸せだ。
「君だけが、僕に嘘を付かない。そんな気がしてならないんだ」
 そんなことない。俺は嘘つきだ。例えば俺はきっとカノを一生抱き締めてあげることができない。離してしまうよ。
 けれどそれを口にしたらカノはもう戻ってきてはくれなくなるのでは。そう考えると何も言えなくなった。でも、何も言わないって、もうそれだけで嘘なんじゃないかな。
「いたいなぁ」
 こころがいたいよ。

君と僕の内側に咲くトゲの話





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