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「北原は見たことあるか?」

井浦は黒ずんだ筆を止めると後ろから覗き見るように座っていた北原に声をかけた。

「え?何をですか?」

急に声をかけられたことに驚いたのか、北原は姿勢を正した。
そんな北原の様子に井浦は肩を揺らしながら、窓を開ける。
からりと乾いた風が吹き通り、閉じ籠ったままの空気を外に逃がす。
心地の良い、下町の香りが室内を覆った。

「人が死ぬ瞬間、蝶だよ」

さらりと言い放つ井浦の顔には僅かに笑みが浮かんでいた。

「蝶、ですか?」
「あぁ、北原は見たことあるか?」
「残念ながら、ないですね」
「そうか」

それだけ言うと井浦は筆の先を硯に落とした。
瞬間、黒々とした斑点が跳ねて白紙や机に広がる。
井浦は手や裾が汚れることもい問わず、筆を白紙へと運んだ。
さっきまで書いていた絵は何処へ行ったのだろう。
北原は首を傾げながら机の周りを見渡し、ある一点を射止めると溜め息を吐いた。

まさか、自身の作品を食べる馬鹿は居まい。

しかし、井浦が口にくわえていたのは間違いなく、さっきまで筆を走らせていた紙であった。

「………」

声をかけたいが、邪魔をしてよいものかどうか。
無意識なのだろう。
大屋さんが愚痴っていたのを思い出した。

『何にも食べない癖に、何でも口にくわえちゃうんです』

集中力の向上か何かか。
よくわからない。

「人が死ぬ時、蝶が見えるんだ」

ポツリと井浦は呟いた。

「それは霊なのか、はたまた死神、天使なのか、よく分かんないんだけど、真っ青な蝶が一匹、死者の胸に影を落とすんだ」

思えば、井浦がこの道を進もうと決めたのは中学卒業を間際に控えた時のことだった。
それから、実家から少し離れたこの場所を借り、ずっと絵を描いている。
きっかけがなかったといえば嘘になるが、井浦はその理由を決して語ろうとはしなかった。

「そして蝶が再び飛び立とうとする瞬間、死者の身体から無数の赤い蝶が飛び立っていくんだ」
「赤、…青じゃないんですか?」
「俺には赤く見えた」

井浦は黒い硯の上に朱色の液体を落とした。
あれは何だったろう。
言うなれば、習字の先生なんかが使うものによく似ていた。
違うとすれば、それが黒と決して交わらないことと、錆色の斑点が浮かんでいることだった。

「それはなんですか?」
「赤い油。俺もよく知らないんだけど、銭湯の仙石さんがお土産にってくれたんだ」
「使っちゃっていいんですか?高価なものかもしれないのに」
「馬鹿だな、使わなきゃ腐っちゃうかもしれないんだぞ?」
「腐るんですか!?」
「いや、よく知らないけど」

黒を朱の錆に乗せるようにして交える。
実に不思議で形容しがたい色であると北原は思った。
いや、井浦がまともに色と呼べるような色を作っている光景など、存在しないのではないだろうか。
少し前、この人と出会うきっかけというのが皮肉にもそうであった。
井浦は変な色を作って、それで絵を描いてしまう画家だと雑誌に書いてあったのを覚えている。
その絵が気になって美術館に見に行った時、偶然にも井浦がいて蛙の体液がどうのこうのと呟いていた。
正直、最初は引いた。
しかし、まぁ色々あって俺はこの人に惚れてしまったのだ。
惚れた弱みだ。

「秀さん、何を描いているんですか?」
「んー?特に考えてねぇや」
「…そうですか」

蝶。
それを見たら、僕は貴方の隣に立てるんですか?なんて無理も承知。

「あ、早鐘」

カンカンカンカンと休むことなく鳴り響く鐘の音に耳を傾けては、遠方の煙を探した。
暫くして見つけた火柱に蝶ではなく鳥を連想した。

「蝶、か…」


―――――――……






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