「本当に覚えてないんだ」
冗談とは思えない吉川の様子に秀は溜め息を吐いた。
これでは自分が馬鹿みたいではないか。
「姉ちゃん…この人は?」
もとがようやく精神世界から戻ってきたのか、会話に割り込む。
「あ…と、友達」
知らなかったっけ。
チラリと吉川を一瞥すると、井浦の弟か…なんて呑気なことを言っていた。
「友達…友達に追いかけられてたの?つか、なんで、姉ちゃん泣いてるの?」
守るように秀の前に出てきたもとは警戒心を隠そうともせずに吉川を睨み付けた。
まるで番犬みたいだ、と吉川は思った。
井浦が男だったら、こんな感じなのかなとも思ったけど。
追い掛けろと言われて追いかけてきたけど、正直、何をしたらいいのか分からない。
最低とまで罵られたが、覚えてないものは覚えてないのだ。
「弟くん、井浦にそっくりだねー」
軽く、そう空気を軽くしようとして言ったのだが、井浦の弟は「ハァ?何当たり前いってるんすか?」とばかりに蔑んだ目を向けてきた。
…可愛くない。
「もと!」
「…っ…」
怒ったような秀の口調にもとは俺は知らないと拗ねたような態度で返した。
溜め息を一つ、溢して。
「ごめん、吉川」
「何が?」
「いや、色々と…」
さっきまでのシリアスが嘘のようにハートフルな空気が流れているような気がしてならない。
姉弟って素敵だなぁ。
「その、さ。俺、馬鹿だからよく覚えてないんだけど、井浦に何かした?」
「……いや、覚えてないならそれでいいよ。…私も、忘れるから」
不味いことを言ってしまったような気がする。
地雷だったのか、秀は吉川から露骨に視線を逸らした。
「教えてくれないの?」
「別に……忘れちゃうくらいのことなんだろっ」
「いや、教えてよ。気になるじゃん」
スッと視線を横に向けると関わるなと噛みつかんばかりの弟くんがいた。
「かなりのシスコンだね」
「そ、そうかな?あ、でも!もと、好きな人いるもんな!」
多少の自覚があるのか、秀は誤魔化すように笑い、もとは気まずそうに顔を逸らした。
それから、ポツリ。
「…うん」
でも、姉ちゃんが一番だよ、顔が告げていた。
あぁ、彼は本当に姉が好きなんだ。
言えない感情の名前をつけることは叶わず、またそれを見てはいけない。
だから、俺が代わりに名をあげよう。
君が道を殺めてしまわぬように。
「俺は、井浦のことが好きだよ」
伝わる世界
―――――…